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2019/09/03

警察ウオッチャーも首を傾げる「内調トップ」人事

 更に橋本行革による中央省庁再編は、内調そのものを大きく変質させた。2001年内調室長に代えて、各省庁事務次官より上位となる特別職の内閣情報官を新設したのである。

 内調トップは、創設以来警察庁の“指定席”となっていたが、警察ウオッチャーからすれば、その人選を巡って幾度となく首を傾げることがあった。逆に官邸入りしてから大化けした警察官僚もいる。その多くは、本庁の警察庁長官・警視総監昇進レースから外されたという被害者意識が逆にルサンチマン(憎しみ)となって、安倍内閣で政策決定のキーマンとなっている「官邸官僚」を先取りしていたと言えるかもしれない。

警察庁 ©文藝春秋

 先述の大森氏もその一人で、「公安警察のエース」として警視庁の公安総務課長、公安部長の要職を歴任しながら、長官ポストを“ダークホース”的な同期の関口祐弘氏に奪取された。ただ公総課長時代の1980年、福田赳夫内閣を震撼させた旧ソ連の諜報機関GRU(当時のソ連軍参謀本部情報総局)による元自衛隊陸将補スパイ事件摘発に消極的だった大森氏が、事件後自らの手柄話として語っていたのには、大きな違和感を覚えた。また内調室長就任後は、マスコミにもソフトムードで応対する一方、唐突な危機管理論を演出し、その後の官邸改革への布石を打っていた。

 更に先述の情報官交代クーデター劇では、古巣の警察庁ではなく、経産省を推す二橋官房副長支持に回るかと思えば、2005年には内調に対抗して、外務省が英国の秘密情報機関「SIS(シークレット・インテリジェンス・サービス)」を念頭に打ち出した「対外情報庁」構想取りまとめに率先して動くなど、先述の「情報コミュニティ」強化とは真逆の言動が、筆者には不可解であった。

空洞化していった官邸の危機管理

 初代内閣情報官の杉田和博氏もまた同じ思いだったのではないだろうか。

 城内康光警察長官(58年)の後押しで神奈川県警本部長から警備局長に返り咲いたものの、國松長官狙撃事件捜査失敗の上に、公安警察自壊の責任を問われ、ペルー人質事件後、内調室長へ放逐された。ただ、國松氏が城内長官に抗って、杉田氏を刑事局長に起用するという、当初の人事構想を貫徹していれば、警察庁長官への道は閉ざされることはなかったであろう。そして何よりも、オウム事件は、松本サリン事件捜査の急展開によって、終止符が打たれた可能性が大いにあったと筆者は思う。しかし、人事とは不思議なものである。初代内閣情報官に昇格すると、瞬く間に初代内閣危機管理監へ、更に内閣官房副長官に登り詰め、奇しくも現在は霞が関の幹部人事を牛耳る「内閣人事局」トップも兼務している。官邸入りしてからの杉田氏個人は、ポストが変わるたびに、雪だるま式に権力と求心力を集中させていった。しかし組織としては、屋上屋を重ねる官邸ポストの乱立と堂々巡りの人事で、官邸の危機管理もインテリジェンスも一気に空洞化していった。

警察庁長官であった國松孝次が何者かに狙撃された事件が発生 ©文藝春秋

 因みに、杉田氏を抑えて、長官に就いた同期の田中節夫氏は、相次ぐ警察不祥事のため引責辞任に追い込まれるという不遇を囲っている。また下稲葉耕吉(47年後期)、福田勝一(50年、旧自治省)、鎌倉節(54年)の3氏は内調トップから本庁の出世レースに復帰し、警視総監の座を射止めている。