汗と涙にまみれたグラウンドとは対照的に、スタンドの私は笑いが止まらなかった。高校1年生で初めて背番号をもらった佑ちゃんは目を真っ赤にし、肩を落としていた。3年生の先輩たちはうなだれ、その場から動けない。甲子園が夢へと消えた瞬間、夏のスポーツニュースの風物詩となったシーンだ。スタンドの控え部員も一同にうつむく中、私だけガッツポーズしていた。

「これでやっと俺が試合に出られる。俺の時代が来た」

 時はうだるような暑さの2004年夏、西東京大会4回戦。早実が早々と敗退し、高校野球界に衝撃が走ったが、ベンチから外れた2年生の私は、秋から新チームで試合に出られる喜びに満ちていた。

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 頭がイカレテいるわけではない。少し自己紹介をさせてもらうと7歳から野球を初めて、小中と硬式のクラブチームに所属。土日も夏休みもクリスマスもなく毎日を白球に捧げて、野球推薦で日本一歴史のある伝統校の門をたたいた。レギュラーを取ると意気揚々と入部したが、3学年でおよそ100名の部員がいて、ベンチ入りできるのは20人。1学年下の斎藤佑樹(現日本ハム)のように、どんどん化け物みたいな後輩が入ってくる。甲子園の前に「WASEDA」のユニホームを勝ち取らなくてはいけない現実がそこにはあった。高校野球を語る際に多用されるチームワークや切磋琢磨なんて概念は、当時の私には全くなかった。どれだけバットを振っても、どれだけ体を大きくしてもライバルとの戦いに負けたら出場機会は得られない。

「自分以外は三振して、エラーしろ。ケガをしろ」

 気が付くと、ライバルの失敗やアクシデントを祈っていることもしばしばだった。投手と野手の違いはあったが、のちのハンカチ王子にも貴重な一枠を奪われ、悔しくてたまらなかった。

巨人で絶対的な存在だった背番号10

 そんな日本の野球界のヒエラルキーの頂点にいるのが、読売巨人軍。セ・リーグ覇者の9つのレギュラーの座の中でも、他が足を踏み入れることができない聖域と化していたのは扇の要だろう。25日に引退会見をしたキャッチャー・阿部慎之助である。ルーキーイヤーから開幕マスクをかぶり、原監督に「巨人軍史上最高の捕手」と言わしめた。

今季限りで現役引退する阿部慎之助 ©文藝春秋

 近年では小林誠司、加藤健(現新潟アルビレックスBC球団社長補佐兼総合コーチ)、日本ハムから引退を発表した実松一成などが、その牙城に迫ったが一切寄せ付けなかった。活躍できなければすぐさま職を失うプロ野球の世界で、同じポジションに絶対的な存在がいることは致命的。高校野球と次元が違うが、私のように妬みやひがみに溢れているかと思いきや、様子が違った。皆が皆、背番号10と同時期に生まれ捕手という生業についたことを嘆き、恨めしくは思っていない。共通していたのは感謝の念だった。

 今でも忘れられないのが、2013年9月22日。リーグ制覇を果たした広島戦でスタメンマスクをかぶったのが加藤だった。「夜12時に電話が来ました」。前日に阿部が急遽、帯状疱疹を患い、先発出場の連絡が来たのは当日、時計の針が0時を回ったころだった。優勝がかかる大一番の緊急事態。それでも冷静に、当時ルーキーだった菅野を好リードし8回1失点の好投に導いた。