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 その昔のAVをめぐる問題というのは、ボカシが濃い/薄い、本番/疑似本番といったものだ。その境界線を越えると世間は熱狂するいっぽうで、警察はそれを「わいせつ」と見なしては取り締まる、すなわち表現の問題であった。今となっては牧歌的な話である。ところが今日における論点は、出演強要が「女性に対する暴力」にあたるとして政府が乗り出すなど、人権の問題となっている。

 こうした今の時代にドラマ「全裸監督」である。ひとによってはここに警察と対峙しながらもエロに生きる男たちのピカレスクの物語を見るが、ひとによってはそこに人権問題の不在を見るのであった。

作中ではAV業界の影も描かれるが……

 そこではAV業界の光と影の、影が描かれていないわけではない。とはいえ、裏流出や警察の買収などを他の人物に背負わせることで「村西とおる」を主人公として守ったかのようである。

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 たとえば最近の事例だと映画「破門」の主人公はヤクザ者であっても、カタギから金をむしったり、クスリをシノギにはしない。だからメジャー映画の主人公に据えられる。いうなればコンプラ的なアウトローだ。


 そんなふうに、ドラマの「村西とおる」もアウトローの世界のなかでの正義として存在する。逮捕は逮捕でも、裏本のわいせつ図画販売目的所持罪やハワイでの逮捕は描かれても、未成年者のAV出演による児童福祉法違反での逮捕が取り入れられていないのは、笑えないからだろう。

村西とおるは象徴であっても、勝利者ではない

 また原作では、村西とおるの現場になんの撮影かも知らずにきて、錯乱し童謡を歌い出す者までいたとの逸話を引き合いにして、著者の本橋信宏は「彼女たちが所属するプロダクションは撮影現場で何をするかわかっていたが、現地でなんとか村西監督に説得してもらえば脱ぐだろうという、他人任せのところもあった」と記す。いわば村西とおるは出演強要のための機能でもあった。そうしたことは当時のAV業界においても「黒い噂」として捉えられていたとある。

 ドラマに対する批判は、むかしからAV業界が内包してきた問題そのものへの批判でもある。そうした問題もあって、業界自体が衰退に向かう。そんなAVの歴史を俯瞰で見れば、村西とおるはひとつの時代の象徴ではあっても、勝利者ではない。

 では誰が勝利者なのかといえば、DMMの亀山敬司だろうか。AVでの利益を原資にして金融やゲーム、はたまた自然エネルギーや葬儀など事業を広げてコングロマリット化に成功し、見事、勝ち逃げしようとしているのだから。
 

(注1)本橋信宏『全裸監督』太田出版・2016年
(注2)BRUTUS特別編集「合本 危険な読書」マガジンハウス・2019年
(注3)山崎紀雄の評伝に阿久真子『裸の巨人』双葉社・2017年がある。