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連載昭和の35大事件

「戦争不拡大・反東条」を主張したカリスマ軍人・石原莞爾はなぜ“満州事変”を計画したのか

2019/09/15
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「陸大創設以来の頭脳」とされた軍人・石原莞爾とは

 最近、NHKの人気番組「ファミリーヒストリー」に俳優の小澤征悦氏が登場。父で満州生まれの世界的指揮者・征爾氏の名前が、当時満州にいた2人の軍人の名前からとられたことが紹介された。それは、当時関東軍の高級参謀だった板垣征四郎(のち陸相、戦後の東京裁判で死刑)と作戦主任参謀の石原莞爾。満州事変の首謀者とされた2人だった。筆者が昔、石原について取材したとき、彼を信奉する人たちは「満州事変で手を下したのは石原将軍ではない」と主張した。しかし、多くの証言から、石原が事変の中心人物だったことに疑いはない。瀋陽(当時奉天)の事件現場にある「九・一八歴史博物館」には、事件の主謀者として板垣と石原のレリーフが飾られている。そして、敗戦に至るその後の15年を振り返ったとき、戦争の時代へと突き進む歴史の大きな転換点となったのは、「二・二六事件」(1936年)と並んで、この1931年9月の柳条湖(当時から近年まで柳条溝と誤記され、本編もそうなっている)事件だったのではないかという気がする。

筆者が石原莞爾について書いた記事(佐賀新聞1999年)

 石原莞爾は山形県・庄内地方の出身。陸軍士官学校(陸士)を優秀な成績で卒業したが、教官に反抗的な態度をとるなど、操行に問題があったという。陸軍大学校(陸大)では2番で「陸大創設以来の頭脳」とされたが、性格は「性粗野にして無頓着」という評価だった。その後連隊勤務の後、ドイツに留学。フランスのナポレオンやプロイセン(現ドイツ)のフリードリッヒ大王らの戦史研究に力を入れたという。その彼が陸大教官を経て関東軍作戦参謀の中佐として満州に現れたのは1928年10月。翌1929年7月、ハルビンなどへの参謀演習旅行が行われたが、その際、石原は「国運展回の根本国策たる満蒙問題解決案」を示す。その骨子は「満蒙問題の解決は日本が同地方を領有することによりて始めて完全達成せらる」。参謀らの論議の中から、満州占領と統治計画の具体的な研究が始まった。

「謀略により機会を作製し、軍部主動となり国家を強引する」

 石原の満州構想は「満蒙問題私見」にまとめられている。政治的、経済的価値を論述して、日本軍が撤退し「漢民族の革命とともにわが経済的発展をなすべしとの議論は、もとより傾聴検討を要するものなるべしといえども」、漢人が「果して近代国家を造り得るやすこぶる疑問」だから、日本の満蒙領有は正義だと強調している。そして、「謀略により機会を作製し、軍部主動となり国家を強引する」という結論へ。このころの石原の考えは、台湾のように総督を置いて自治をある程度認める形だったようだ。のちに、新国家建設を容認するようになるが、その先の現実において、日本の権力中枢、陸軍と石原の満州に対する思想の違いが際立ってくる。

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 そして、9月18日の柳条湖事件となるのだが、実は今回の本編には問題が多い。というより、筆者の花谷正・元中将(事変当時少佐)は“うそっぱち”を書いている。本編では、満州事変がどのように起きたかには全く触れず、その後の内田康哉総裁を中心とした南満州鉄道(満鉄)とのやりとりが、自慢話のようなトーンで書かれている。この「昭和の35大事件」が出たのは1955年。ところが、翌1956年の雑誌「別冊知性・秘められた昭和史」で、花谷元中将は「満州事変はこうして計画された」と題して、事変が自分も含めた関東軍の謀略だったことをはっきり認めた。これが事変の真相を明らかにした最初の証言だった。さらに、清朝の「ラストエンペラー」溥儀を引っ張り出す工作まで述べている。要するに、文藝春秋は“ガセネタ”を書かれたといえる。

満州事変について伝える1931年9月20日の東京朝日新聞号外