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「満州事変当時、あなたが模範を示したことをやっているだけだ」

 石橋湛山(戦後首相)は既に1921年7月の時点で、本拠としていた「東洋経済新報」の社説に「一切を棄つるの覚悟」を掲載。「利害得失を冷静に勘案すれば、植民地は利益にならない」という“植民地コスト論”を展開して、満州などの「放棄」を訴えた。そうすれば、インドやエジプトなどの西欧列強の植民地の人々が発奮して立ち上がるだろう。それが「わが国際的位地をば、従来守勢から一転して攻勢出でしめるの道である」とした。比較は難しいが、現在の観点から見ると、石橋の論に軍配を上げざるを得ないのではないか。

 石原はその後、参謀本部作戦部長の時に盧溝橋事件に遭い、日中戦争「不拡大」を主張するが、部下の作戦課長だった武藤章大佐(戦後、東京裁判で死刑)に「私たちは、満州事変当時、あなたが模範を示したことをやっているだけだ」と言われるなどしたうえ、結局戦争拡大を防ぐことができなかった。1937年、関東軍参謀副長として満州に舞い戻るが、既に満州は彼の理想とは懸け離れた植民地だった。そして、東条英機参謀長(のち首相)と対立して辞任。その後も「反東条」を徹底して、閑職に追いやられる。「東亜連盟」という民族主義団体を結成して運動を拡大。東京裁判では戦犯とならず、山形県・鳥海山のふもとで開拓に従事したが、病気のため、敗戦から4年後の1949年8月15日に死去する。

敗戦1945年8月の石原莞爾(「永久平和の使徒 石原莞爾」より)

 石原は敗戦の1945年8月15日当日、「都市解体、農工一体、簡素生活」という「平和三原則」を提唱する。彼の考えを継承した団体「石原莞爾平和思想研究会」がいまも存在するが、その中心だったのが、日本新党で参院議員を務めた武田邦太郎氏(故人)。田中角栄・元首相の「日本列島改造論」を審議する懇談会の委員を務めたが、筆者の取材に「日本列島改造論は石原イズムだと思った」と語った。東亜連盟の支持者には理化学研究所の中興の祖・大河内正敏所長がおり、そのつながりから、石原の死後、このスローガンをそのまま使って最初に衆院選に出馬(落選)したのが田中元首相だった。

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武田邦太郎氏 ©文藝春秋

 武田氏は晩年、かつて石原らと過ごした鳥海山麓に居住。師事した晩年の石原について「やはり、神がかり的なところのある人だった」と振り返った。石原莞爾平和思想研究会の会員だったのが、歌手・加藤登紀子さんの夫の藤本敏夫氏(故人)。筆者は、病気入院していた藤本氏にその死の直前呼ばれて懇談したが、別れ際、最後に彼が言った言葉は「やっぱり石原莞爾ですよ」だった。筆者も、石原の思想の中にはいまに生かすべき点があるような気がする。

本編「満洲事変の舞台裏」を読む

【参考文献】
▽松岡洋右「動く満蒙」 先進社 1931年
▽石原莞爾「満蒙問題私見」 1931年「ドキュメント昭和史2満州事変と二・二六」平凡社 1983年所収
▽花谷正「満州事変はこうして計画された」「別冊知性・秘められた昭和史」河出書房 1956年所収
▽森島守人「陰謀・暗殺・軍刀」 岩波新書 1950年
▽石原莞爾「世界最終戦論」 立命館出版部 1940年
▽山口重次「悲劇の将軍 石原莞爾」 世界社 1952年
▽石橋湛山「一切を棄つるの覚悟」 東洋経済新報社説 1921年「石橋湛山評論集」岩波文庫 1984年所収
▽武田邦太郎、菅原一彪編著「永久平和の使徒 石原莞爾」 冬青社 1996年