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「竹光であっても、学良軍閥打倒のごときはそれで十分だ」

 小澤征爾氏の名前の由来は書いたが、それは征爾氏の父で歯科医だった小澤開作が、満州の開拓と発展に強い使命感を燃やした日本人が結成した「満州青年連盟」の中心人物だったからだ。

 小澤らは関東軍参与となって板垣、石原と深い親交を結ぶ、というより、石原の一種カリスマ的な強烈な魅力にひかれたと言っていい。一つのエピソードがある。関東軍幹部の会合で、青年連盟幹部らは中国の排日運動で日本人が困窮していることを訴え、関東軍に決起を迫った。軍人らに「腰のその軍刀は竹光か?」とまで言った。石原はこう答えた。「竹光であっても、学良軍閥打倒のごときはそれで十分だ」「いざ事あれば、奉天撃滅は二日とはかからん。事は電撃一瞬のうちに決する」。奉天を拠点とする満州軍閥の張学良(張作霖の息子)軍は約23万、対する関東軍はわずか約1万3000といわれた。青年連盟のメンバーらは大言壮語と受け止めたが、実際に柳条湖事件の直後、張学良軍が無抵抗策をとったこともあって、関東軍はあっと言う間に周辺から駆逐した。花谷元中将も「満州事変当初の作戦は、世界軍事学界の驚嘆の的となったといわれる」と述べている。

満州事変 ©文藝春秋

石原が目指した「五族協和」と「王道楽土」

 石原は日蓮宗の熱烈な信者で、日蓮の予言に基づく独自の世界観を持っていた。それを集大成したのが1940年に発表した「世界最終戦論」。(1)最後の決戦は東洋代表の日本と西洋代表のアメリカの文明対決(2)その後、世界は統一され、絶対平和が訪れる(3)それに備えて中国とは東洋同士提携する――と主張した。満州についても、のちに満州国の公的なスローガンとなった「五族協和」(日本人、漢人(中国人)、朝鮮人、モンゴル人、満州人の五族の共生)「王道楽土」を本気で構想していたようだ。日本人は大規模企業と知能を用いる事業、朝鮮人は水田の開拓、中国人は小規模労働と分担も考えていた。彼が満州に設立した満州建国大学では五族協和の実践を図ったほか、講師にスターリンとの争いに敗れて亡命したトロツキーを呼ぼうとした。軍人として規格外の発想の持主だったことは間違いない。

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「赤い夕陽」「新天地」「農業の理想郷」……。農業移民の満蒙開拓団が続々組織され、将来展望のない農家の二、三男が農業経営の大きな期待を持って海を渡った。当時の小説や映画などでも、国内の閉塞状況から飛び出していく舞台として、常に満州は取り上げられた。結局、日本人の農業移民は成人、青少年合わせて、敗戦直前の段階で約22万6000人に上った。その現実は、日本人が現地の「満州人」らから土地を取り上げる結果に終わった。現地での日本人と他民族の差別は歴然で「五族協和」は名ばかり。石原の理想の国は「砂上の楼閣」だった。現地体験を持つ日本人は、戦後も満州にノスタルジーを抱く人が多いが、スローガンと実態の乖離は明らか。敗戦と引き揚げ時の悲惨なドラマは枚挙にいとまがない。

蒙古(モンゴル) ©文藝春秋