VW帝王とCEOの泥仕合に
これに対しVWは2月8日に、「ピエヒ氏の証言は、事実無根。ピエヒ氏は2016年春の社内調査でも似たような発言を行ったので、米国の法律事務所に依頼して調査を行ったが、彼が指摘するような事実は全く見つからなかった。ピエヒ氏に対する法的な措置も検討する」と、元「帝王」に対して異例の厳しい声明を発表している。法的な措置とは、損害賠償請求を意味する。だがピエヒが偽証罪に問われる危険を冒してまで、噓の証言を行うとは考えにくい。
さらに、もう1つ気になる事実がある。それは、ピエヒが2015年4月に突然ヴィンターコルンをCEOの座から追い落とすための「上からのクーデター」を起こしたことである。当時、ピエヒはニュース週刊誌「シュピーゲル」に対し、「私はヴィンターコルンに距離を置く」と発言し、かつての右腕だった部下と訣別することを宣言したのだ。ヴィンターコルンは、34年間にわたりピエヒに仕えてきた、子飼いの部下だった。
“Ich bin auf Distanz zu Winterkorn.“という6つの単語がVW社員らに与えた衝撃は大きかった。VW帝国の監査役会長が、メディアを通じて、ヴィンターコルンをCEOの座から引き下ろすための権力闘争を始めたのだ。
だが監査役会の他のメンバーや、労働組合はピエヒに反旗を翻し、ヴィンターコルン擁護に回った。ピエヒはグループ内で厳しい批判にさらされ、2015年4月25日に監査役会長を辞任した。「VWの帝王」として君臨していたピエヒは、生まれて初めての屈辱を体験し、自動車業界の表舞台を去った。
帝王が敗北した理由とその真意とは
監査役会の他のメンバーや労働組合がヴィンターコルンを擁護した理由の1つは、彼がCEOに就任して以来、2005年に524万台だった全世界の自動車の販売台数を2014年に949万台に増やしただけでなく、収益性も改善するなどのめざましい業績を生んだからである。2015年にVWは中国に18の工場を持っていた。中国での自動車製造を積極的に拡大したのも、ヴィンターコルンだった。
ヴィンターコルンは、アジアでのビジネス拡大によって、「販売台数でトヨタを追い抜き、世界一の座につく」というピエヒが掲げた目標を、あと一歩で実現するところだった。それだけに、ヴィンターコルン失脚を狙ったピエヒの発言は極めて唐突で、奇妙なものだった。
だがピエヒの証言が事実とすれば、このクーデター未遂事件は、ピエヒが2015年2月に米国の監督官庁が排ガス不正で同社を追及しようとしていることを知り、ヴィンターコルンにこの件を問い質してから、わずか2ヶ月後に起きたことになる。ピエヒは、排ガス不正が同社にとって未曽有の危機となることを察知したために、突然「ヴィンターコルンに距離を置く」と発言した可能性がある。
私は去年8月に文藝春秋から『偽りの帝国 緊急報告・フォルクスワーゲン排ガス不正の闇』という単行本を発表したが、その100頁に次のように書いた。
「ここからは私の推測だが――、ピエヒはVW内部に張り巡らした情報網によって、米国でEPAとCARB(カリフォルニア大気資源委員会)の調査が進んでいることを、ヴィンターコルンよりも早くキャッチしていた可能性もある」「彼は社内の独自の情報源からEA189型エンジンに違法ソフトウエアが使われていたことを知り、2015年中に米国からの巨大な津波がVWを襲うと考えたのかもしれない。ピエヒは自分に累が及ぶのを防ぎ、全ての責任をヴィンターコルンに押し付けるために、2015年4月に突然ヴィンターコルンとの間に距離を置こうとしたのかもしれない。」
もしもピエヒが検察庁に行った証言が事実とすれば、私の推測は当たっていたことになる。