マラソンとは、つくづく「我慢」と「決断」の競技だ。
東京五輪のマラソン代表を決めるMGCのレースを見ながら、そんなことを考えていた。
スタート直後から「遅かったら一気にハイペースで行きます」というレース前の宣言通りに設楽悠太(ホンダ)が飛び出すと、後続を一気に引き離し、一時は2分以上の差をつけた。その時点では「五輪代表のひと枠は設楽で決まりじゃないか」という雰囲気も、メディアルームには漂っていた。
「最後まであのペースで逃げ切れるはずはない」
ただ、後方集団で走っていた選手たちは冷静だった。
「この暑さの中、最後まであのペースで逃げ切れるはずはないと後方集団はみんな思っていたと思います」と第二集団でレースを進めた神野大地(セルソース)が語ったように、多くの選手が序盤は自重し、集団でレースを進めることを選ぶと、16km付近ではその神野が、25km付近では鈴木健吾(富士通)が代わる代わる仕掛け、ペースを上げて行った。
時には優勝候補の大迫傑(ナイキ)が先頭を引き、服部勇馬(トヨタ自動車)がペースを上げる場面もあった。その結果、後方の選手たちは37km過ぎで設楽を吸収し、集団内でのマッチレースに持ち込むことに成功したのである。
そんななかで常に集団の2番手に位置取り、虎視眈々と好機を狙っていたのが優勝した中村匠吾(富士通)だった。決して集団の先頭に出ること無く、エネルギーを温存。他の選手たちが次々にペースアップをしては差を広げきれないアタックを繰り返し、失速して行く中で、我慢に我慢を重ねて40km前と41km過ぎの2度のスパート。最後まで粘る大迫、服部を突き放し、一気に優勝を手中に収めた。一度は大迫に追いつかれながら、もう一度突き放すところに、レース展開を読み切った上での決断の良さが感じられた。
「一度目のスパートに追いつかれるのは想定していたので、まだ余裕がありました。40km付近で仕掛けるのがベストかなと思っていて、特にどこで仕掛けるのかは決めていませんでしたが、余裕を見て、最後の坂で仕掛けられました」
そう中村自身が語るように、多くの選手が35kmからの上りをポイントとしている中で、さらに終盤の坂を上手に利用してみせた。
そんな話を聞いていて思い出したのが、駒大時代の中村の言葉だ。