NHKの大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』のきょう9月22日放送の第36回は「前畑がんばれ」と題し、1936年のベルリンオリンピックの女子200メートル平泳ぎで優勝した前畑秀子にスポットが当てられる。秀子を演じる上白石萌歌は、体格のよかった本人に似せるべく、体重を7キロ増やし、日焼けサロンにも通ったという(※1)。

『いだてん』で前畑秀子を演じる上白石萌歌 ©共同通信社

ロス五輪銀メダル後「結婚か、水泳続行か」

 前畑秀子は1914年、和歌山県橋本町(現・橋本市)に生まれた。幼いころから地元の紀ノ川で泳ぎに親しんでいた彼女は、橋本尋常高等小学校の尋常科3年になって水泳指導を受け始めると、めきめきと頭角を現した。5年生のときには、大阪で開かれた関西水泳連盟主催の学童水泳大会に出場し、50メートル平泳ぎで当時の学童女子の日本記録をつくる。

 秀子の生家は貧しい豆腐屋で、本来なら尋常科を卒業後は進学する余裕などなかった。それが小学校の高等科に進んで水泳を続けられたのは、校長の西中武吉が両親を強く説得してくれたからだった。高等科の3年生だった1929年6月には、汎太平洋女子オリンピック大会の選手選考会(東京)で200メートル平泳ぎに初出場し、当時の日本記録保持者だった飯村昌子を破る。こうして出場権を得た同年8月のハワイでの汎太平洋大会では、100メートル平泳ぎで優勝、200メートル平泳ぎでも2位となる。帰国してまもなく、名古屋の椙山高等第二高等女学校に招かれ、同校の室内プールで模範水泳を行なった。このとき、校長の椙山正弌(まさかず)から「私の学校へ来て、水泳の力を伸ばしてみる気はないかね?」と誘われたのを機に、椙山第二高等女学校3年に編入学する。ハワイ遠征の体験から、できればオリンピックに出てみたいとひそかに思うようになっていた秀子は、思いがけず、夢をかなえる道を開かれたのである。

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 女学校在学中、両親をあいついで亡くし、一時は退学も考えたが、椙山の説得でとどまった。こうして女学校のプールで練習を重ねた末、1932年のロサンゼルスオリンピックに出場し、200メートル平泳ぎで銀メダルを獲得する。だが、『いだてん』でも描かれていたように、帰国後の祝賀会で、当時の東京市長・永田秀次郎は秀子と対面すると、銀メダルという結果をしきりに残念がり、次のベルリンオリンピックではぜひ優勝してほしいと懇願した。恩師の椙山校長からも、ベルリン大会をめざすよう勧められる。しかし4年後には秀子は22歳になり、当時の女性の結婚適齢期をすぎてしまう。それでもオリンピックを目指して水泳を続けるべきか、悩む彼女を後押ししたのは、夢に出てきた亡き母親の一言だった。「やりかけたことは、最後までやり通しなさい」。この言葉に彼女は水泳を続行することを決める。