新居は名古屋に構えたが、結婚して5ヵ月目には、日中戦争の勃発にともない夫は軍医として召集される。それから夫が復員するまで、伊豆の熱川に住む夫の兄夫婦のもとに身を寄せ、毛皮用に飼育していたタヌキの世話をしながら待った。夫は3年後に帰ってきたが、すぐに再召集され、日米開戦を挟んで2年間、満州(現・中国東北部)に赴任。帰国後は静岡の清水港の司令部に勤務する。この間、名古屋の家で秀子は2人の男児を儲けた。
終戦後、復員した夫は、1946年に岐阜市で医院を開業する。秀子は子供の面倒を見ながら、看護師代わりに夫を手伝うようになった。それからというもの毎朝5時から日曜も働き通しの日々が続くが、1959年10月、夫が急逝する。秀子45歳のときだった。彼女はそれからほぼ1年間、お経を読みながら泣き暮らしたという。
日本の水泳を再び強くするため「水泳教室を開きたい」
翌1960年、母校の椙山女学園から声をかけられ、医務室勤務兼水泳コーチとなる。コーチといっても専業ではなかったため、当初は医務室勤務のほうにウェイトがかかった。だが、プールで元気に泳ぐ後輩たちを見ているうち、水泳への情熱が再び沸き起こる。すでに選手たちの体格はよくなり、技術も向上していた。それなのに世界水準を上回る記録が出ないのはなぜなのか、秀子は疑問だった。そこで彼女は指導にあたって技術よりも精神面の強化に重点を置く。それが奏功して、やがて母校からは高校新記録を出したり、オリンピックの代表候補にあがる選手も出てきた。
そのうちに、秀子のもとには全国各地から講演依頼やプール開きへの招待が舞い込み、時間がとられることが増えていく。しかし、外出のたびに、医務室の仕事を他人に任せねばならず、しだいに彼女をねたむ声も聞こえてきた。いつしか秀子は、誰にも文句を言われず、自由に動き回れたらと強く望むようになる。
ちょうどそのころ、名古屋市では、瑞穂に市営の温水プールの建設が始まっていた。話を聞きつけた秀子は、毎日のように工事現場に出かけた。並行して市役所の体育課に日参して、水泳教室を始めるための許可をとるべく陳情する。しかし若い職員たちは、まさか彼女がオリンピックの金メダリスト
秀子がそんな行動に出たのは、当時の日本の水泳陣がオリンピックで成績が振るわなかったためである。日本の水泳を再び強くするには、水泳人口の底辺層をもっと厚くしなければならない。そのためにはまず母親、さらに子供たちに水泳を教える必要があると、彼女は水泳教室の開設を思い立ったのだ。