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 オリンピックで優勝するため、秀子は毎日2万メートル泳ぐことを自分に課してトレーニングを積んだ。こうしてのぞんだベルリンオリンピックでは、8月8日の予選で最初から全力で泳ぎ、世界新記録を出して1位通過する。翌9日の準決勝でもタイムこそ落としたものの1位となり、無事に決勝に進出した。

1936年ベルリン五輪で優勝を争った前畑(左)とゲネンゲル ©getty

「前畑がんばれ」伝説の実況はどうして生まれた?

 8月11日の決勝当日、極度のプレッシャーから秀子は宿舎を出る直前に、自分でもわけのわからないまま、お守りを水と一緒に飲みこんだ(『いだてん』ではロサンゼルスオリンピックでのエピソードとして描かれていたが)。号砲が鳴ったのは、日本では午前0時に近い深夜だった。

 スタート前、秀子は、ともに優勝候補と目された地元ドイツのマルタ・ゲネンゲルにくっついていくつもりでいた。だが、プールに飛びこんだ瞬間に忘れてしまう。そこから最初の折り返しまでは2番手グループにいたものの、100メートルの手前でトップに立つと、あとは予想どおりゲネンゲルとの一騎打ちとなった。しかし本人は無我夢中だった。最後のターンをしたとき「あと50メートルだ」と思ったが、自分がどの位置にいるのかまったくわからないまま、ゴールインする。監督に助けられてプールから上がった彼女は、スタンドで日章旗が振られ、「ばんざい」の声が上がる様子から、初めて勝ったのかもしれないと思ったという。

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 放送席では、河西三省アナウンサーが日本に向けての実況生中継で「前畑がんばれ」と連呼していた。それが秀子がゲネンゲルとのデッドヒートを制した瞬間、「前畑勝った!」に変わり、最後は「前畑さん、ありがとう! ありがとう! 優勝しました。女子競泳で初めての大日章旗が揚がるのです」と締めくくられた。じつは河西はこの日、朝から調子が悪かった。そのため、そばにいた山本照アナウンサーと現地雇いのアルバイトから「河西さんがんばれ」「がんばれ、がんばれ」と、放送直前まで励まされていたという。「前畑がんばれ」の名実況は、河西が自分に言われた言葉が伝染して生まれたものだったのだ(※2)。

金メダルを獲得した前畑のメダル授与式 ©getty

結婚、戦争、そして夫との突然の死別

 秀子はベルリンから凱旋すると、全国から殺到した模範水泳を見せてほしいとの要望に応じて、しばらく各地をまわることになる。その年、1936年11月には、椙山校長の世話により医師の兵藤正彦と見合いをし、翌年3月、名古屋の熱田神宮で結婚式を挙げた。オリンピックで一躍ときの人となった秀子の結婚は、日本国内ばかりではなく、外電で各国に報じられた。