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2019/09/22

脳溢血で倒れても、再びプールへ

 市役所に通ううち、しだいに話を聞いてもらえるようになった。そこで「市民の健康のため」と訴えた彼女の言葉が職員たちの心を動かしたのか、ついに水泳教室の許可が下りる。こうして1967年、瑞穂プールに母親を対象とした「ママさん教室」が開設される。生徒は着実に増え、意を強くした秀子は、このあと「幼児教室」「子ども教室」と水泳指導の輪を広げていった。さらに優秀な児童を対象とする「スイミングクラブ」もつくり、精鋭の育成にあたった。

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 1982年には、名古屋市鳴海のプールに、母親や子供の教室のほか、高齢化社会を見据えて中高年を対象にした「シルバー教室」も開設する。秀子自身、このときには60代になっていた。翌1983年、鳴海プールで指導中、脳溢血に倒れ、一時は生死の境をさまよう。意識が戻っても右半身に麻痺が残る状態だったが、1日も早くプールに戻りたいとの一心でリハビリに励み、無事、復帰を果たす。その後も、1995年に80歳で亡くなるまで、日本の水泳の向上に尽力した。1990年には文化功労者にも選ばれている。

水泳でオリンピックを目指した次男

 秀子には2人の息子がおり、長男の正臣は高校まで水泳に打ち込み、長じて歯科医となった。次男の正時は小学生のときから野球を始め、プロ野球選手を夢見たが、中学3年になってまもなくして見切りをつける。ある日試合に負けて落胆する正時に、秀子は「悔しかったら、お母ちゃんのように一人で自分の力を発揮できるスポーツで選手になったらどうや」と助言したという。彼は考えた末、水泳に転じることを決めた。そこで彼女はコーチを買って出る。その夏、家の近所の小学校にできたばかりのプールを借りて、朝5時からマンツーマンの特訓を始めた。正時はみるみる才能を開花させ、その年のうちに200メートル平泳ぎで全国7位の記録を出す。

 正時は高校に進学すると水泳部に所属し、母の手を離れて練習を重ねた。1961年、高校2年のときには3年後の東京オリンピックの強化選手のメンバーに選ばれる。大学に入ってからの合宿では、200メートル平泳ぎの日本記録を破るまでになった。だが、本番のオリンピック代表選考会では体調不良もあり、惜しくも入賞を逃した。

 それでも彼は大学を卒業すると、指導者として水泳にかかわる道を選ぶ。東京・代々木のオリンピックプールの子供向けの水泳教室でコーチを務めたのち、アメリカに2年間留学する。帰国後は、秀子に請われて瑞穂プールの水泳教室のコーチとなり、実績を積んだ。やがて母のもとから独立して、スイミングスクールのコーチを養成し、派遣する会社を設立した。スポーツマックスというその会社は現在、秀子の孫の兵藤大二郎が社長となり、水泳にとどまらずフィットネスなどにも業務を広げている。同社は企業理念として、秀子の生前の意思を受け継ぎ、「スポーツを通した豊かな社会づくり」を掲げる。