僕が「オカマ」と呼ばれるようになったのはいつからだろうと記憶を遡っていくと、物心がついた時には既にそれっぽいことは言われていた。
幼稚園の時に「オカマ」と呼ばれた記憶が僕自身にはないのだが、小学校2年生の時に久しぶりに幼稚園に顔を出した際、僕の担任だった先生に「小学校に入って、少しは男の子らしくなったの?」と聞かれたことははっきりと覚えている。だからきっと幼稚園の時の僕も男の子らしくない男の子だったのだと推測できる。その幼稚園の先生の質問に対する答えは完全にNOだった。
小学校の担任の先生も、僕が他の生徒に「オカマ」と呼ばれることに頭を悩ませていた。2年生の時の先生は「帰りの会」と呼ばれるHRの時間に、僕を教室の前に立たせ、クラスのみんなに向かって「七崎くんはオカマかい?」と問いかけ「先生は七崎くんのこと普通の男の子だと思うんだけど」と演説をしたものだから、僕自身、いたたまれなくなってしまい、みんなの前で泣いてしまった。そして自分は変な人間なんだと思い込んでしまった(詳細は過去の記事を参照)。
なるべく男の子らしくしようと気をつけてはいたのだけど、学年が変わっても、中学生になっても僕はオカマと言われ続けた。
「男は男らしく」を強要した先生たちの真意
ある先生は「どうしてイジメられるかわかるか? 七崎くんがぶりっ子してるからだよ? 先生からみても、七崎くんはオカマだよ」と、男の子らしくない僕を「ぶりっ子」と認定し、ぶりっ子をしなければ普通の男の子になって、イジメられることもなくなると言い張った。
ある先生は、僕に彼女を作ることを薦めた。「彼女ができれば、彼女に対する責任感が生まれて、少しは男らしくなれるはずだ」と。
また、ある先生は僕の仕草を矯正しようと躍起になった。
「男の子なんだから走る時は腕を前に振りなさい!」
「男の子なんだから座る時は内股ではなく股を広げて座りなさい!」
「男の子なんだからいつもニコニコしていない方がいい!」
「ヘラヘラするな!」
残念ながら「男らしさ」を矯正されてきたことは僕にとって、きっと、一生消えないトラウマになってしまったように思う。
もっと残念なことは、僕にそうしたトラウマを与えた人たちは、自らの言動を「僕のために」と思ってしてくれていたということだ。彼らにとって「男は男らしく、女は女らしく」というのは「正義」だったのだ。
その正義感を突き動かしていたものは何だったのか? レイチェル・ギーザの『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』(DU BOOKS)という本を読んで、もう一度考えてみた。
そもそも「男らしさ」とは何なのか? ということから考えなくてはならない。