「男性性」と聞いて思い浮かべるものは?
そこで役に立つのが、この本の中でも紹介される「マン・ボックス」という概念だ。
ジェンダー平等をテーマに話をすることの多いジェフ・ペレラが学生向けに行った、マスキュリニティ(男性性)のステレオタイプについてのワークショップの内容がこの本で紹介されている。
ペレラは黒板にチョークで大きな四角い箱を描き、「マン・ボックス」とタイトルを書いた。そしてその中にマスキュリニティについての伝統的な見方を表す単語やフレーズを書き込んでいった。
タフ、強い、大黒柱、プレイボーイ、ストイック、支配的、勇敢、感情を出さない、異性愛者。
箱の外には、伝統的マスキュリニティの基準に満たさない男性を表現する言葉が書かれた。
弱虫、ホモ、オカマ、女々しい、マザコン。
彼は大学生たちのグループに向かって、この2つのリストに追加する言葉はないかと問いかけた。
「意気地なし!」「リーダー!」「ボス!」「クィア!」といった声があちこちから聞こえてくる。ペレラはそれらを書き留めながら、この作業から見えてくるのは「男らしさが、柔らかい・優しい・感情的・フェミニンといった印象を与えるものすべての否定によって成立していること」なのだと説明した。別の言い方をすれば、あらゆる点で女と逆の存在が男である、と表現できるかもしれない。
(『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』p.26より)
マン・ボックスの中に「異性愛者」という言葉がある限り、僕のようなゲイは完全にマン・ボックスの外にいることになる。それ自体は僕にとって、全くもって気にもならないことなのだが、自らの男らしさを証明するために、あるいは男らしさの基準を満たない男性を取り締まるために攻撃される対象になりうると、この本は指摘している。
僕を男らしくしようと必死になっていた先生や大人たちは、その攻撃から僕を守るために、なんとか僕の存在を「マン・ボックス」からはみ出ないようにしようとしていたのかもしれない。正直、ありがたいとは思えないのがとても残念だ。
誰かを「オカマ」と呼ぶことは最大級の侮辱
僕が言われ続けてきた「オカマ」という言葉に関しても、この本では触れられている。
社会学者のC.J.パスコーは、2000年代初期の1年半にわたり、労働者階級のさまざまな人種の生徒が通うカリフォルニア州の高校内で密着取材を行ない、男の子たちが自分や相手の男性的ふるまいを定義したり規制したりするうえでホモフォビア的中傷表現をどのように用いているかを研究している。
(中略)
男子高校生たちのあいだでは「ゲイ」という単語が、同性愛を意味するニュートラルな用語としても、「バカ」や「ダサい」と同じたぐいの漠然とした抽象表現としても、両方の意味で使われていたと言う。一方、「オカマ」という単語は、ゲイの生徒を茶化す場合と、より広く男らしさの基準に沿わないふるまいを批判する場合との両方に使われていた。
(中略)
ある生徒はパスコーに「誰かをゲイとかオカマと呼ぶのは、最低の侮辱なんだ。おまえはゼロだ、って言ってるようなもんだから」と語っている。
(『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』p.31~32より)
なんと、パスコーにインタビューされた男子生徒によれば、誰かを「オカマ」と呼ぶことは「おまえはゼロ」だと言っているに等しいらしい。つまり、最大級の侮辱なのだという。