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玉の井から娼婦から「堅気」に戻れたのは220人中わずか……

被害者の娘を取り上げた記事。良くも悪くも“角度がついている”のが特徴(東京日日新聞より)

 事件解決後の新聞は、「『この手、この脚が』と切り離し恨みを晴らす」「血に錆びた……『呪いの鋸(のこぎり)』」など、犯行のおどろおどろしい模様を再現しながらも、「人間愛に結ばれた 世にも呪われた関係」「恩を忘れた千葉の狂暴」など、加害者側に同情的な空気が漂う。水上署の警察寮に収容された千葉の娘の写真も載せ「寂しけれど朗らか」と報じている。

 この陰惨な事件の被害者、加害者とも、置かれていた状況は時代特有だった。昭和初年の農村恐慌と都会の不景気による中小企業の倒産、労働者の首切りで、1930年中の失業者は300万人に達したといわれる。資産も定職も縁故もない「細民」が急増。東京市社会局の調査では、1930年に市内外の「定居細民」は約28万人に上った。「浅草公園に行ってみると、もう活動も芝居も見世物も終わった後で、さすがの歓楽境も人足少なく、ルンペンは『ヅケ場』へ出かける時刻であった。『ヅケ場』とは、ルンペンが食い残りをもらう処で、おのおの縄張りが決まっている」。ルンペン(最近は全く聞かなくなった言葉だが)が浅草公園にたむろする姿を、同社会局員の草間八十雄がルポしている(「歳末のルンペン風景」)。千葉龍太郎はまさにその時代を生きていた1人だった。

 さらに1929年、東北地方は大凶作に見舞われ、貧しい農家は娘を売らざるを得ない境遇に追い込まれた。岩手県の農家の15歳の少年は「悲しい、悲しい凶作、今度生まれるときは百姓でなく、偉い人に生まれてきます」と書き残して川で自殺した。売られた娘は最寄りの歓楽地や東京に向かった。玉ノ井もそうした大きな人の流れの中にあった。当時、日本共産党の活動家だった南喜一(その後、転向。戦後、国策パルプ会長)は玉ノ井の娼婦たちを救済して親元に返す活動をしていたが、ある時、助け出した女性の親らのこんな会話を聞いた。「娘も東京にさえいたら、毎月いくらかでも送金してよこせるのに」「貧乏暮らしにごくつぶしが増えてしまった」……。南が1933~34年に救い出した女性約220人のうち、確実に「堅気」に戻れたと分かったのはわずか2人だったという。このバラバラ事件では、玉ノ井は単に遺体の捨て場所だったにすぎないが、事件にはこの時代の色彩が濃厚に映し出されていた。

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本編「玉の井・バラバラ事件」を読む

【参考文献】
▽加太こうじ「玉ノ井バラバラ事件」=「昭和犯罪史」 現代史出版会 1974年所収
▽永井荷風 「濹東綺譚」 烏有堂 1937年
▽戸川猪左武「素顔の昭和 戦前」 角川文庫 1981年
▽警視庁史編さん委員会編「警視庁史〔第3〕昭和前編」 警視庁 1962年
▽草間八十雄「歳末のルンペン風景」 「週刊朝日」1931年12月27日号所収
▽南喜一「ガマの闘争」 蒼洋社 1980年