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口数が少なくなっていった

 春夏の甲子園には一度もたどり着くことができなかったが、ダイナミックなフォームとあのスピード、そして多彩な変化球をひとたび目にすれば、末恐ろしいダイヤの原石であることは誰の目にも明らかだ。

 とりわけ163キロを記録した4月以降、佐々木は常に喧騒の中に身を置いた。練習試合、公式戦を問わず、プロのスカウトが大挙して訪れ、佐々木が降板すればぞろぞろと引き上げていく。夏の岩手大会では徹夜組が出るなど大混乱で、トラブルを避けるために佐々木が投球練習をするブルペンがブルーシートで周囲を覆われたこともあった。次第にマスコミの前に立つ佐々木の口数は少なくなり、真意と異なる報道を警戒してか、当たり障りのない発言に終始するようになった。

岩手大会で活躍する佐々木投手 ©文藝春秋

 日本中が注目する球界の宝も、佐々木を指導してきた中学、高校の指導者からすれば、手に余る才能だったのかもしれない。軟式野球部に所属した大船渡第一中学時代は、成長痛や腰の疲労骨折で苦しむ佐々木に対して、当時の指導者たちはリハビリの手助けをし、最後の夏も身体の負担を考慮し、投げさせない判断を下した。

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 さらに大船渡入学後は、米国・独立リーグを経験した國保陽平監督が佐々木の入学から半年後に就任し、佐々木の肩やヒジへの負担を最優先に考え、球数や登板間隔に配慮しながら起用してきた。163キロを記録したあたりからは、「球速に耐えうる骨、筋肉、靱帯、関節ではない」という医師の診断を根拠に、より慎重な起用が続いた。

岩手大会で記者団の質問に答える佐々木投手 ©文藝春秋

 そして、あの騒動が起きる。國保監督は岩手大会の決勝で、準決勝からの連投となる佐々木をマウンドには送らず、野手として起用することも、代打としてバッターボックスに立たせることもしなかった。直後から賛否両論が渦巻いた。

 佐々木にとって初めての大舞台となったU-18野球W杯でも、大学日本代表との壮行試合で右手中指にできた血マメを悪化させた佐々木に対し、永田裕治監督らは傷口が完全にふさがるまで辛抱強く待った。だが、満を持して登板した決勝進出の懸かる韓国戦で、再び血マメを悪化させてしまった佐々木はわずか1イニング、19球で降板せざるを得なくなり、期待を裏切る形で高校野球を終えた。