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石垣が圧巻! 宇喜多秀家が築いた岡山城が“特別な城”である理由

城下では「隠し寿司」と雄町米の銘酒を堪能!

2019/10/25

 城内に江戸時代から残る石垣は、ほとんどが宇喜多時代ではなくその後に入った小早川時代、もしくは池田時代に築かれたものです。秀家が去った後は、小早川秀秋が入り、秀家の城下づくりを引き継いで、城を整備・拡張。ところがすぐに小早川家は断絶したため、備前28万石で、姫路城主・池田輝政の次男、池田忠継が入りました。

 慶長20年(1615)に忠継が没すると、弟の池田忠雄が31万5200石で入城。この忠雄が、実質的に岡山城を完成させた人物となります。寛永9年(1632)には忠雄の子である池田光仲との国替えで池田光政が入城し、以後、岡山城は幕末まで光政系池田家の居城となりました。

本丸の大手口となる、内下馬門跡。

 宇喜多時代はほぼ加工しないまま積み上げた荒々しい野面積みの石垣で、小早川・池田時代は平面を平らに加工した打込接です。秀家が築いたゴツゴツとした趣ある石垣に対して、池田忠雄が1620年代に築いた小納戸櫓下の石垣は、石材が成形され、整然とした印象です。

 大納戸櫓台の石垣は小早川秀秋が築き池田忠継(利隆)が改修したもので、内下馬門跡や六十一雁木門横の石塁は、関ヶ原合戦後の池田氏による築造とされます。本段東側には、秀家が築いた石垣の隅部に秀秋が継ぎ足した跡も残ります。秀家は安定性の高い大きく角張った石材を積んでいるのに対し、秀秋は丸みのある石材を粗雑に積んでいるのが特徴です。ぜひ、見比べてみてください。

大納戸櫓台の石垣。算木積みの精度が宇喜多時代より高く、池田時代より低い。
小納戸櫓下の石垣。宇喜多時代、小早川時代の算木積みと比較すると精度が異なる。

必見の2つの現存建造物

 建造物は、西の丸西手櫓と月見櫓の2つが現存しています。西の丸西手櫓は、幼少の忠継に代わり国政を執った兄・利隆が築いたものといわれます。旧内山下小学校の敷地一帯が西の丸で、西手櫓はその西端にあります。近年、電車通り沿いの高層ビルが撤去され、西側からよく見えるようになりました。

西の丸西手櫓。

 月見櫓は忠雄の築造で、城外側から見ると二重の望楼型ですが、城内側は三重の層塔型になる珍しい構造。城外側には防御装置を設けつつ、2階の東西面には雨戸が設けられるなど、御殿のつくりをしています。表書院での政務の一環としての小宴の場だったようで、その名の通り月見も行われました。

月見櫓。

城を守るべく、川の流れも改造

 さて、岡山を訪れたら特別名勝・後楽園に立ち寄りたいという方も多いでしょう。岡山城から旭川にかかる月見橋を渡るのが、後楽園の南門への近道です。

 この月見橋は、岡山城天守のオススメ撮影スポットです。一級河川の旭川が天守を取り巻くように蛇行し、雄大な景観を生み出しています。「うまい具合に天守を取り巻いているものだなあ」と感心してしまいますが、実はこの流れは、秀家が築城時に人工的につけかえたもの。岡山城は西向きで、西側に城下町を展開するため、東側の旭川を城の背後を流れるように改修して天然の外堀として活用しています。

旭川は城を防御する天然の外堀でもある。
天守最上階から見下ろす旭川。対岸が後楽園。

 河川をも味方につけ、自然の利点を引き出し弱点を補っていくのが、築城の基本理念なのです。秀家の行った工事により旭川上流の流路は不自然になり、江戸初期には甚大な水害をたびたび引き起こす一因になりましたが……。

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