こうした形で展開される本作品が持つ「正しくなさ」とは何か? 靖子を暴行する拓馬、そして描かれるその暴力そのものはもちろん、「正しくない」存在であり行為である。だが、実は主人公である宮本は、ある意味で拓馬以上に「正しくない」存在なのだ。どういうことか。彼はどんな出来事が起きても徹底的に、他者のためではなく、自分自身のためだけにしか行動しないのである。
主人公が選んだ解決策は、「すごい俺」になることだった
宮本は拓馬にケンカを挑み、最終的に勝利する。ボロボロにした拓馬を連れて靖子の前に現れ、「俺の人生はバラ色で、このすごい俺がお前も生まれてくる子供も幸せにしてやる」と宣言する。宮本は靖子のためではなく、自分自身を完全に肯定し切るためにこそ、拓馬を打ち負かしたのだ。
宮本は、愛する人が犯され、悲しみの底に叩き落されても、それでもその人のためには行動しない。彼はもがき苦しみながら自分のためだけにケンカをし、自分のためだけに幸せになろうとする。「すごい俺」になることだけが唯一、靖子や生まれてくる子どもと共に生きていく方法だという、ナルシシズムと表裏一体の深い諦観がそこにはある。
「力を合わせるなんてケチケチしたこと言わねえ 俺がいれば十分だ」と靖子に言う宮本は、男性的な傲慢さという限界を超えることはできていないが、他者と本当の意味で分かり合うことの不可能性は知っている。
物語終盤で生まれてくる宮本と靖子の子どもも、父親が宮本なのか靖子の元恋人である裕二なのか、生まれてくるまで分からない。そのことまで全部背負って、宮本と靖子は親になろうとするが、無論そのことも彼ら自身の勝手な意志でしかない。宮本だけでなく、登場人物の誰もが、完全には「正しい」振る舞いをできないことに苛まれながら生きている。
自分勝手な人間同士が、共に生きる道を模索した先に
この物語のなかでは誰もがお互いに徹底的に「他者」であり、その「他者」同士がそれでも何とか共に生きていくためにもがき苦しむ光景が描かれる。究極的には「私益」を生きることしかできない、人間という存在の寂しさと不可能性が折り重なっていく光景がひたすらに描かれる。そしてそこにこそ、人間ひとりひとりの存在が前提となった公共性への萌芽があるようにわたしには思える。