「日本芸術文化振興会」は実質的に、「お上」の立場から「公益」という言葉を持ち出した。これは、「公益」とは一体どういうものなのかを、「お上」の彼らが決定・判断できると言っているに等しい。表現の「正しい」在り方は彼らが決める、と言っているようなものだ。
しかし言うまでもなく、公共性の在り方というものは、権力の側がその形を規定していくべきものではない。そこで生きる人間ひとりひとりの存在がまず前提となって形作られていくものこそが、公共性であるべきだ。
靖子にはまた別の生き方もあり得たのではないか
原作の物語を忠実に映画化した本作の出来映えに、わたしは不満が無いわけではない。特に、拓馬を打ち負かした宮本を靖子が受け入れる、というプロセスに関しては、原作とは別の形で物語を語り直し得る可能性があったのではないかと感じる。
原作には、「他者」としての靖子を必死に描こうとしつつも、最後の一線で彼女に「赦してもらう」ことに甘えてしまっている部分がある。「女」という規定や範疇に靖子を押し込めることに抵抗し、人間としての彼女に向き合おうとしながら、それでもどこかで彼女の「赦し」に頼ってしまった部分がある。そのことに自覚的な漫画作品ではあるが、それは別に自覚的であれば許される語りではない。
ジェンダーロールが今よりも更に差別的規範として強力に機能していた1990年代前半の日本の漫画作品としては、『宮本から君へ』は必死に努力して靖子をひとりの人間として描こうとしていたと思う。だが2019年の映画作品としての『宮本から君へ』には、その点について更に挑戦してほしかったというのが、わたしの正直な感想だ。靖子の「赦し」がなくとも、靖子がもっともっと身勝手に、「正しくない」生き方をしたとしても、人々がバラバラのまま共に生きることのできる世界はあってほしいと、どうしてもわたしは思ってしまう。
「みんな」という言葉によって、個人がかき消されることに抗う
「公」、「みんな」、そういうことばが持ち出されるとき往々にして、そこで実際に生きている人々ひとりひとりの顔は忘れられがちだ。この映画は、(不十分な部分はあるにせよ)そのことに全力で抗おうとする作品であり、そして同時にその抗いの萌芽を描いたに過ぎない作品でもある。
ラストシーン、無事に子どもを出産した靖子と、彼女を運ぶ救急車を見送る宮本は、「みんな」というひとかたまりにならないまま、それでも個々人が共に生きる世界をつくっていけるかどうかを、これから本当に試されることになる。そして、理由はどうあれ「お上」から「公益性の観点から適当ではない」と烙印を押されたこの映画を観ているわたしたちもまた、そのことを試されているのである。