【ハカの謎2】日本で初めてハカが披露されたのはいつ?
では日本におけるラグビー試合で、ニュージーランドのチームによってハカが初めて披露されたのはいつのことなのか。
「1936年にニュージーランド学生代表チームが来日して試合を行っているのですが、その時にハカを踊ったという記録は残っていないのです」(小林氏)
正式に記事、文献となっている日本初のハカは、第二次世界大戦後になってからのこと。
「1958年、ニュージーランド・コルツ(23歳以下のニュージーランド代表)が日本に遠征した際、到着したばかりの羽田空港内でいきなりハカを披露しました。その後、首相官邸を表敬訪問し、当時の岸信介首相の前でも踊っています。もちろん、秩父宮競技場で行われた日本代表戦の前にも行われ、小学生時代の私もこの目で見ています」(小林氏)
さすが日本ラグビー界の生き字引き。ちゃんと歴史的瞬間にも立ち会っているのである。
そういえばW杯日本大会開幕の前日、安倍首相はニュージーランド首相と会談した際、親善の印に両国代表チームのジャージを交換していた。どうやら安倍家(岸家)は親子2代に渡って、ニュージーランドのラグビーと少なからぬ縁があるようだ。
【ハカの謎3】2種類あるハカ、どう使い分けてる?
ラグビーの試合前に民族の伝統に基づく踊りを披露するのは、ニュージーランドだけでない。同じオセアニア地域のサモアは「シバ・タウ」を、フィジーは「シビ」を、トンガは「シピ・タウ」を行うのが習わしになっている。しかしそれらはいずれも基本的に1種類だけで、毎試合同じものを踊るのに対し、前述のように現在のオールブラックスのハカには「カマテ」と「カパ・オ・パンゴ」の2種類があり、ここ一番の重要な試合では「カパ・オ・パンゴ」を選ぶという。
「ただし、オールブラックス側はその定説を否定しています。『カマテ』を踊った相手に対して失礼に当たりますからね。もっとも、実際そのように使い分けられる傾向があることは確かです」(小林氏)
2005年に「カパ・オ・パンゴ」が作られたのには、こんな背景がある。
「オールブラックスの人種構成に白人、マオリ系だけでなく近年はサモア系、フィジー系、トンガ系というパシフィックアイランドの出身者も加わってきたことで、新しい時代のオールブラックスの結束のために新しいハカが必要だとの機運が高まったのです。そこでマオリ文化だけでなく、オールブラックスを構成するすべての人種の文化的背景を取り入れ、シバ・タウなどそれぞれの踊りの振り付けも取り入れたハカが作られました」(小林氏)
さらに別の理由も。
「2000年代に入った頃から、マオリ文化の保護に関わるマオリ系ニュージーランド人の間で、オールブラックスのハカをやめさせろという運動が起こりました。というのも、2000種類以上あるとされているハカのほとんどは、挨拶の意味合いの踊り。『カマテ』は、ハカの中でもごくわずかしかない戦いのための踊りのひとつなのですが、オールブラックスがカマテを踊ることで、マオリが戦闘的な民族だと勘違いされてしまう、と。そのような誤解を広めないよう、オールブラックスのハカを禁ずるべきだというわけです。そこでマオリ側からの『ハカ=戦闘の踊り、ではないことを正しく伝えてほしい』という要望を受け、ニュージーランドラグビー協会はオールブラックスの選手へマオリ文化を伝える担当者を置くことで、ハカに反対するマオリの人たちの説得に努めました。『カパ・オ・パンゴ』は、そうした動きの延長でできたものでもあるのです」(小林氏)
昨今はラグビーにも、ポリティカル・コレクトネスが求められる時代なのだ。