「満州国の命運を決した」関東軍司令官宛ての書簡
1932年3月1日、新京(現・長春)を首都として満州国の建国が宣言された。土肥原の約束にも関わらず、当初は立憲共和制で、溥儀は「執政」に。帝政が敷かれて皇帝になるのは2年後の1934年3月だった。
溥儀を頂点に国家体制が整備された。「キメラ」によれば、満州国の統治形態の「鍵」は「日満定位」「日満比率」「総務庁中心主義」「内面指導」だったという。
日満定位と日満比率は、満州国の政治組織内の人事配置の規律。「基本的に各機関のトップに中国人を、次位に日本人を充てて、中国人の自主的発意に基づいて組織が運営されている形式をとって傀儡国家という国際的非難を回避する」(同書)意図だった。内面指導とは、関東軍の全面的な介入のこと。「(関東軍が)最も関心を寄せ、最も注意を払ったのは、いかにして関東軍ないし日本政府の意向を確実に満州国統治に反映させ“意のままに動かす”かということであった」(同書)。
さらに、溥儀は新京に入る前に、本庄繁・関東軍司令官宛ての書簡に署名していた。「キメラ」によれば、その大筋は
(1)満州国は国防及び治安維持を日本に委託し、経費は満州国が負担
(2)日本軍が必要とする鉄道・港湾・水路・航空路などの管理を日本に委託
(3)日本軍が必要とする施設を極力援助
など。同書が「満州国の命運を決した」としている通り、これはまさに傀儡国家の証明であり、溥儀ら満州国側に実権があるはずもなかった。その人事で甘粕は、日本の内務省警保局長に当たる民生部警務司長に就任した。
若い岸にとって、満州は「真っ白なキャンバス」だった
日本の中央省庁から少壮官僚が大挙して海を渡った。星野直樹、椎名悦三郎、大橋忠一ら、戦後の政界で活躍した人物も多い。その筆頭が1936年11月に商工省から実業部(のち産業部)次長(実業部総務司長とする資料もある)になった岸信介(戦後、首相)だった。
既に商工省から数人が満州に渡っていた。「ところが、満州の産業行政については関東軍の第四課が勝手なことをしている」「これではいかん、産業行政の問題については、商工省の最も優秀な人間が行って、軍人から産業行政を取り上げてやるべきだ、いずれ、自分が行ってやらなければいかんというのが私の考え方だった」と岸は回想している(岸信介・矢次一夫・伊藤隆「岸信介の回想」)。関東軍の有力将校が彼の満州行きを図っていたともいわれ、利害が一致した形だった。
満州で岸が直面したのは「満州産業開発5カ年計画」だった。これは石原莞爾がソ連の5カ年計画をモデルに、腹心で満鉄(南満州鉄道)調査部の宮崎正義に立案させたものだったが、石原が満州を離れ、推進力を失っていた。
ここで、満州経済を推し進める主体が、満州に理想を懸けた「王道主義」の石原グループから、対立した人々に「アカ」と呼ばれることもあった岸ら統制経済官僚に移ったといえる。岸はさらに、満州の経済開発の担い手を、旧財閥でなく、鮎川義介率いる新興財閥の日産に任せた。
「満洲を振り返ってみると、下手ではあるかもしれんが、俺の描いた作品が満洲にずっと残るだろうと言ったんです。しかし、これから帰る日本を見てみると、先輩たちがいろいろな方面から描き散らしているもんだから、かつて自分が描いた絵はどこにあるか分からん。満州には下手なりに自分の作品が残っていく」と岸は語っている(原彬久編「岸信介証言録」)。少壮官僚にとっては、満州はまだ何も描かれていない真っ白なキャンバスだったということだろう。