“既成事実を作る”ための泥縄工作
「満州事変」の端緒となった「柳条湖事件」から4日後の1931年9月22日、板垣、石原ら関東軍幹部と土肥原らが会談。「我が国の支持を受け、東北4省及び蒙古を領域とせる宣統帝(溥儀)を頭主とする支那政権を樹立し、在満蒙各民族の楽土たらしむ」という「満蒙問題解決策案」を決定した(山室信一「キメラ」)。
石原は以前から満蒙直接領有に固執していたが、陸軍中央に根強い反対があり、国民党政府との対比においても「独立国家」とする方が得策という意見が通った。
溥儀についても以前から担ぎ出し工作が始まっていた。1929年には、張作霖爆殺事件の主謀者で予備役となっていた河本大作・元陸軍大佐が溥儀側と接触。河本から報告を受けた小磯国昭・陸軍軍務局長は「宣統帝にとっては、元来満州は清朝の旧領だ」「その宣統帝が復帰するとなれば、うるさい国際関係の容喙も許さないだけの理屈づけもできる」と語ったとされる(同書)。
溥儀擁立には「清朝の復活など時代遅れ」などの反対意見もあったが、小磯の発言に代表される論理が優先された。全ては、1932年国際連盟からリットン調査団が派遣されたように、国際社会が満州事変と満州国の正当性について疑いを深める前に既成事実を作ってしまおうという“泥縄”の工作だった。
柳条湖事件翌月の1931年10月末、土肥原大佐が溥儀を訪問した。溥儀の日本人通訳・林出賢次郎の「厳秘会見録」を基にした中田整一「満州国皇帝の秘録」によれば、土肥原は「いったん満州におもむき、元首の地位に就き、万々一失敗に終わることありとも、日本は、関東州内にご居住なさる場合は、十分にご保護を行うなり」と伝えた。
溥儀が1964年に中国で出版し、邦訳が1965年に出た「我的前半生」(邦題「わが半生」)では、溥儀は「復辟」(退位した君主がまた王位に就くこと)に強いこだわりを見せている。「復辟ならば行きますが、そうでないなら私は行きません」。それに対し土肥原は「もちろん帝国です。それは問題ありません」。溥儀は答えた。
「帝国ならば行きましょう」
関東軍が溥儀の護衛として派遣したのは甘粕だった
そして、1931年11月10日夜、本編にあるように、土肥原大佐の策謀で天津の中国人街で暴動が発生。日本人租界の交通が遮断された。「板垣ら関東軍は、日本外務省から溥儀の厳重監視を訓令されていた天津総領事桑島主計らの目をくらますために、この非常手段を講じたのである」と「満州国皇帝の秘録」は書いている。
当時の幣原喜重郎外相(戦後、首相)は溥儀擁立を警戒して桑島総領事に厳命していた。溥儀は天津を脱出。船で営口に到着した。「上陸した彼らに近づいてきたのは小人数の集団で、それも意外なことに日本人ばかりであった。先頭の小柄な男が溥儀の数歩前でピシりと両脚を揃えて立ち止まり、一礼した。長身の溥儀を見上げるように、丸い鉄ぶちの眼鏡の下から向けられた視線に、溥儀は一瞬圧迫を感じた。彼はかつてこのように、迎合の色のみじんもない視線を浴びたことがない。溥儀の前に現れたのは、彼の護衛のため、関東軍がひそかに派遣した甘粕正彦であった」(「甘粕大尉 増補改訂」)。
「わが半生」では、溥儀は大杉栄殺害事件と関連づけて「このいかにも礼儀正しい、細縁の近眼鏡をかけた人物に、そのような異常な経歴があろうとは、私はどうしても想像することができなかった」とある以外、特に印象を書いていない。その後、甘粕は「黒子」のように溥儀に張り付く。