石原時代から変貌した満州は「王道から皇道へ」
一方、「満州事変の舞台裏」解説でも触れた「満洲青年連盟」の小澤開作らは「王道楽土・五族協和」を掲げて、中国人らと民衆教化組織「満洲協和党」を結成。それが「満洲国協和会」に改組される。
石原は、協和党を関東軍に代わる満州国の最高政策決定を担う機関にと構想していた。しかし、日本国内で「五・一五事件」が勃発。挙国一致内閣ができるなど、時代の流れが変化していた。協和会は名誉総裁に溥儀、名誉顧問に本庄が就くなど、官製機関の色彩が濃くなり、甘粕がその総務部長となる。石原が満州からいなくなって、彼の思想を信奉していた人々への風当たりが強くなり、小澤らは協和会の中心から遠ざけられる。
甘粕と石原は一時は同志だったが、合理主義者の甘粕と理想主義者の石原はしょせん「水と油」。さらに、石原と犬猿の仲だった東条英機(のち陸相、首相)と甘粕が同じ「憲兵畑」で親しかったことも、両者の距離を隔てた。
こうして「石原時代」の満州国の姿は決定的に変貌する。「キメラ」はそれを「王道から皇道へ」と表現している。石原は1937年に関東軍の参謀副長として再び満州に登場するが、「既に満州国は建国に携わった人々の手をはるか遠く離れて、能吏型軍人、行政テクノクラート、特殊会社経営者の鉄の三角錐によって運営される体制になっていたのである。
その体制を象徴するのが世に二キ三スケと称された星野直樹(総務長官)、東条英機(関東憲兵司令官、関東軍参謀長)、岸信介(産業部次長、総務庁次長)、鮎川義介(満洲重工業総裁)、松岡洋右(満鉄総裁)である」と同書は指摘している。間もなく、石原は直属上司の東条参謀長と正面から衝突して閑職へ去る。
あっけない満州国と、溥儀の最期
満州国の最期はあっけなかった。1945年8月9日、ソ連軍が侵攻すると、溥儀は新京を逃れ、日本の敗戦翌々日の8月17日、皇帝を退位。ソ連軍に逮捕されて収容所生活を送る。その間、東京裁判に証人として出廷したが、「満州国当時の行為は全て日本の脅迫によるもの」と虚偽証言。不評を買った。
1950年、共産党が権力を握った中国に引き渡され、戦犯管理所で思想改造の日々を過ごす。毛沢東ら共産党幹部の政治的配慮もあったのか、1959年、特赦。人民政治協商会議の委員を務めるなど“復権”を果たし、1967年、腎臓病などのため、61年の数奇な生涯を閉じた。
岸ら満州で力を発揮した官僚や経済人たちは、戦後も懐古的な気持ちが強かったようだ。1965年に刊行された満洲回顧集刊行会編「あゝ満洲」には、そうした気分があふれている。巻頭に「東亜和平之礎石」という岸信介の書が掲げられ、岸は「序」で「(満州は)民族協和、王道楽土の理想が輝き」「当時、満州国は東亜のホープだった」とした。ほかにも戦後の「満州評価」に真っ向から反論する言葉が並ぶ。
「今日では、第2次世界大戦後の戦勝国側の一方的な独断的見解と、これに迎合し追随した浅薄な一部の日本史家の不見識と曲解とにより、『日本の偽装せる帝国主義的侵略』と断定され、しかもこれが日本の“不当な日中事変”と“無謀な太平洋戦争”を引き起こして、遂に日本を破滅に導いた根本の歴史的動因だとされてしまっている。これはとんでもない間違いで、歴史の真相を誤ることこれより甚だしきはない」「(満州国で)実際に率先して再建国のために最前線に働いた日本人は、自国政府の意向に反対してまでも、五族協和の新国家建設に挺身奮進した」……。