解説:理想国家・満州「王道楽土・五族協和」の実体は

「満州事変の舞台裏」の回では、石原莞爾というユニークな軍人による「満州」の理想と現実を取り上げた。実際の満州は「満州国」という日本の傀儡国家として成立。そこに多くの日本人が夢や思惑を抱いて陰に陽にうごめいた。

 清朝最後の皇帝で、関東軍の策謀で担ぎ出されて頭首となった溥儀にとっても、満州国は一種の賭けだったといえる。現地に送り込まれた日本人少壮官僚にとって満州は、日本国内では果たせない野望の“実験場”となった。結果はわずか13年間の「砂上の楼閣」に終わった。だが、そこにはいまも正確には解明されていない部分がある。

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 本編は、溥儀が居住していた天津を脱出する際のいきさつに絞って書かれている。ただ、筆者は当時の天津総領事で、関東軍とは対立する立場。記述が一面的なのは仕方がない。例えば、重大な役割を果たしたのに、本編には全く登場しない日本人がいる。それは、関東大震災直後に無政府主義者・大杉栄と伊藤野枝、7歳の甥を殺害したとされた元憲兵大尉・甘粕正彦。多くの資料に、甘粕は溥儀担ぎ出しの際の護衛部隊のリーダーとして登場する。

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 本編にある通り、策謀の中心人物は奉天特務機関長の土肥原賢二大佐(戦後、東京裁判でA級戦犯となり刑死)だったが、実際の天津脱出から満州入りまでの行動には、軍とは無関係の立場の甘粕を使ったとみられる。

“何かに使える人物”とされた元憲兵大尉・甘粕

 甘粕は大杉栄殺害事件で懲役10年の刑を受けたが、3年足らずで仮釈放となり、妻とともにフランスに渡って約1年半、ほとぼりをさました後だった。無政府主義者を殺害した甘粕を、一般の日本人は「殺人者」と見たのに対し、陸軍部内では「軍の意向を忠実に決行してくれた功労者」と見る傾向が強かったようだ。フランスの滞在費も陸軍から出ていたといわれる。

「この時期の甘粕の行動に決定権を持つのはやはり“陸軍”であったとしか考えられない。彼は駐仏陸軍武官と連絡をとる義務を持ち、引き続き軍の機密費をもらっていたのであろうか」と角田房子「甘粕大尉 増補改訂」は書いている。いずれにしろ、陸軍が甘粕に“借りがある”と感じる半面、規律正しく高い実務能力を持つ天皇崇拝主義者の彼を“何かに使える人物”と見ていたことは間違いない。

元憲兵大尉・甘粕正彦 ©文藝春秋

 甘粕を満州と結び付けたのが誰だったのかははっきりしない。当時、東亜経済調査局付属研究所理事長だった国家主義者・大川周明(A級戦犯容疑となるが、病気で免訴)という説や、甘粕に活躍の舞台を与えようとした旧知の軍人という見方もあるが、証拠はない。

 1929年ごろからは奉天(現瀋陽)に居住。現地の憲兵隊と密接な連絡をとって、日本軍の作戦に連動した工作に携わっていたとみられる。それには当然、犯罪も含まれていた。そのうち、関東軍の高級参謀・板垣征四郎大佐や作戦主任参謀・石原莞爾中佐との接触が始まる。「当時から甘粕は、板垣、石原に代表される関東軍の満蒙領有計画に共鳴し、彼らと深くかかわっていた」(「甘粕大尉増補改訂」)。特に板垣とは肝胆相照らす仲だったという。策謀の実行部隊の責任者を甘粕に依頼したのは板垣のようだ。