カリフォルニア州パロアルトで育ったショックレーの才能は卓越していた。中等学校を飛び級してカリフォルニア工科大学で学位を得ているし、のちにはMITで固体物理学の博士号を取得している。彼は鋭敏で独創的、そして野心的。手品をやってみせたり、いたずらを仕掛けたりするのを好む一面もあったが、おおらかとか気さくといった言葉とは無縁だった。
実験者と理論家を加えてチームを組む
1936年、MITを卒業したショックレーはベル研究所のマービン・ケリーの訪問を受け、その場でウチに来いと誘われる。当時のベル研究所といえば、あらゆる知性が集結し、才能が自由に行きかうイノベーションの源のような場所だ。
「安定性が高く、丈夫で安価な素子で真空管を置き換える方法の探索」
これがケリーからショックレーに与えられた仕事だった。
「管の中でフィラメントを光らせる代わりに、シリコンのような個体素材を使えば解決策が見つかる」
3年後に解決策を出したショックレーには、量子論を視覚化する能力があった。
だが、彼の芸術家のような直観を現実の発明に変えるには、ジョブズにとってのウォズニアックのように、巧みな実験者が必要だった。そこでチームに加わったのが、口は悪いが陽気な西部人ウォルター・ブラッテン。彼は酸化銅などの半導体化合物で独創的な装置を作るのが得意だった。
また、理論系の中心はショックレーだったが、彼にはチームの監督という任務もあっため、理論家をもうひとり呼び寄せることになった。選ばれたのは、もの静かな量子論の専門家ジョン・バーディーン。プリンストン大学で博士号を取得し、大戦中は海軍兵器研究所で魚雷設計についてアインシュタインと議論したという天才だ。同僚によれば「実験家と理論家のどちらとも難なく協力する真の才能を持ち合わせていた」という。
同じ部屋で膝を交えて何時間もブレスト
初めのうち、バーディーンには専用のオフィスがなく、ブラッテンの研究室に間借りする格好になっていた。これは賢明な選択だった。理論家と実験家が同じ部屋にいれば、膝を交えて何時間でもブレインストーミングを続けられるわけだ。