そこで地図を眺めて新大牟田駅の立地を見てみると、なんとなく納得がいった。新大牟田駅は大牟田市の中心市街地に近い大牟田駅から約7kmも山側に離れている。それよりも近くには鹿児島本線吉野駅や西鉄天神大牟田線の東甘木駅があるが、それとて3~4kmほどの距離。だからバスかタクシーに乗り継がねばならない。もともと福岡市内から大牟田に行こうとするなら在来線の鹿児島本線や西鉄天神大牟田線で1時間少々だから、わざわざ市街地から離れた新大牟田駅を使う必要もないのだろう。新幹線を使わなければならない局面が訪れにくいがゆえに、秘境化しているのだと思われる。
大仏のような迫力の「團琢磨」って誰?
と、推察をしてみたところで駅前広場の傍らにとてつもなく大きな像が目に入った。だいたい駅前に立っている像は等身大だったりするのが普通なのだが、まるで大仏のごとく大迫力の新大牟田駅前の立像。近づいてみると、その像の人物の名は「團琢磨」とある。どこかで聞いたことがあるような気がしつつ説明板を読むと、この團琢磨さんは三池炭鉱や大牟田の街の発展の足がかりを築いた人物であるらしい(聞いたことがあるというのは血盟団事件〔1932年の連続テロ〕で殺されたというエピソードを教科書で読んだことがあるからであろう)。明治のはじめにアメリカに留学して鉱山学を習得し、帰国後には三井三池炭鉱の事務長として辣腕を振るった男。1908年には三池港を開いて石炭の輸出という道を開いている。その三池港の開港時、團琢磨さんは次のように述べたという。
「石炭山の永久などという事はありはせぬ。築港をやれば、築港のためにそこにまた産業を起こすことができる。築港をしておけば、いくらか100年の基礎になる」
実際に三池炭鉱そのものは1997年に閉山となるが、それ以降も三池港の存在もあって大牟田は工業都市として健在である。そしてこの三池港や三池炭鉱の施設は2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成施設として世界遺産に登録された。彼に対する敬愛の念は今も市民の間に残っているようで、世界遺産登録施設のいくつかを訪れて地元ガイドさんの説明をきくと、必ず團琢磨の名前が登場する。「團琢磨さんのおかげで~」と、こうなるのだ。そんな地域の誇り・團琢磨が堂々と立つ新大牟田駅前。そういう文脈で改めて1日の乗車人員600人前後というその駅舎を眺めると、なんだか駅舎もいっそう立派に見えてくるのである。そしてよくよく見てみると、駅前ロータリーの中央に立つ時計台は炭鉱の立坑をモチーフにしたデザインになっている。
新大牟田駅の開業は2011年3月12日。三池炭鉱や三池港が世界遺産に登録されたのは2015年だから、團琢磨像や駅前時計台は世界遺産登録など関係なく立てられたということになる。秘境ともいうほどに利用者の少ない新大牟田駅であるが、大牟田の世界遺産を観光する機会があれば、あえて地域の誇りが感じられるこの町外れのターミナルをゴールに設定してみるというのも、おもしろいかもしれない。
写真=鼠入昌史