私が勤めるデイサービスにかつて、「足がないだよ」と繰り返し訴えていたヒサコさんという女性がいた。確かに酷くむくんでいたが、両足はあるし、なんとか歩いていたから、私は「大丈夫、足あるよ」と気休めにもならない言葉をかけて済ませていた。でも本書を読んだら、「足がない」が彼女なりの体との付き合い方の表現だったのではないかと思えて後悔の念にかられた。
本書では、障害をもった十二人の方へのインタビューを通して、それぞれが自らの体とともに過ごす時間の中で蓄積した記憶によって、障害のある体と付き合う方法をどのように獲得していったのかが丁寧に記述されている。
読みながら、ぐっと惹きつけられるのは、語り手が自らの体やその体との付き合い方について語る時の独特の表現である。例えば、倉澤奈津子さんは、骨肉腫で切断した右腕の幻肢の位置を語る時、「自分のボディを感じてみると、やっぱり埋まっている」と表現する。幻肢とは切断してないはずの腕や脚をあるかのように感じること。体に右腕が埋まっているってどんな感じだろう? 想像力を逞しくして自分の体に置き換えてみながらワクワクしてくる。
他にも、ダンサーの大前光市さんは、事故で左足を切断しているが、左足の方が右足より「器用」だ、という。切断された左足の方が器用? この不思議な感覚の訳が、大前さんの体に蓄積され、交じり合った記憶によって解き明かされていくくだりはスリリングだ。
自分の体について言葉で他人に伝えることも、言葉から他人の体の状態を理解することも難しいことだと、介護現場にいる私は痛感している。「足がない」のヒサコさんのように。ではなぜ、本書の語り手はあんなに個性的な語りができ、その語りによって不自由な体との付き合い方が豊かに伝わってくるのだろう。
思うに、本書での体の語りは、二つの対話の幸せな出会いによって生まれたのではないか。一つは、語り手の自らの体との内なる対話である。障害を得ることでオートマ制御できなくなった体を語り手本人は常に意識化し、マニュアル制御するために試行錯誤してきた。まさに、内なる他者(障害の体)との対話である。そこに本人にしか表現できない体の語りが生まれる。
その内なる語りを他者にも伝わるように開いたのが、語り手と著者との対話である。著者は語り手の何気ない言葉やしぐさに圧倒されながら、好奇心旺盛に対話を進める。そのやり取りの中で、他には代えがたいその人なりの体との付き合い方が解明され、それを著者は語り手の語りに寄り添いながら記述していく。
内なる対話とそれを開いていく対話とが出会うことで、体の語りはこんなにも豊かになる。ままならない体と共に生きる人の生き方に希望が見えてくる。そんな体との対話を、介護現場でもできたら、と思う。
いとうあさ/1979年、東京都生まれ。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授、マサチューセッツ工科大学(MIT)客員研究員。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了。主な著書に『どもる体』など。
むぐるまゆみ/1970年、静岡県生まれ。デイサービス「すまいるほーむ」職員、社会福祉士、介護福祉士。著書に『驚きの介護民俗学』。