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1枚の記念写真のつもりが、1本の映画を撮ることに

『鉄道員』は、『動乱』(1980年)以来19年ぶりとなる東映作品で、前作の『四十七人の刺客』(1994年)から5年振りの映画出演でした。

 東映東京撮影所(以下、東撮)坂上順所長から、一通の手紙と原作本『鉄道員』が届けられたことから始まりました。手紙には、企画を立案したのが東撮の石川通生プロデューサーであること、かつて東撮で高倉と苦楽を共にした活動屋の多くが、定年を目前に控え、最後は高倉の作品に参加したいと切望していることが綴られていました。

「坂上ちゃんらしいな」と高倉は苦笑いしていました。

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「坂上ちゃん」こと坂上所長は、『新幹線大爆破』や『野性の証明』で一緒に仕事をした仲です。

「みんなの想いは嬉しいけど、この本(原作)でいいのかわからない。僕は、これじゃないって思うけど」

 とつぶやき、「ホン(脚本)を読んでみないと答えが出せません」と返事をしました。前作『四十七人の刺客』から数年間の空白を経て、主演の責任を果たそうと納得できるほどの思いは、まだ生まれていませんでした。

©iStock.com

 高倉は普段から、業界関係者に接するのはごく稀で、いただいた企画について、少しでも前向きな気持ちにならなければ、担当者にお会いすることはありませんでした。『鉄道員』の最初の脚本が届けられてからも、坂上所長とは手紙のやりとりのみが続けられていました。この作品になくてはならない雪景色の撮影を考えると、高倉の結論待ったなしという段階になって、「ちょっと行ってくる」と、脚本に名前のあった降旗康男監督のご自宅を訪ねたのです。

 帰宅した高倉の声は、弾んでいました。

「『降さん(降旗監督)、これ本当にやる気なの?』って聞いたんだ。最初のうちは、奥さんがお茶を運んできてくださってたんだけど、長居しないつもりが長くなってね。最後は、降さんが自分でお茶淹れてくれてたよ(笑)。いろんな雑談して、帰り際になって『どんな映画になるんですか?』って聞いたら、『5月の雨に濡れるような映画……』とかって言うんだ。(降さんは)東大出だからね、言うことが難しいんだよ! 僕には煙に巻かれた感じ、さっぱりわからない(笑)」

©iStock.com

 のちに高倉は、出演への経緯をこのように話していました。

「演ってみようかという気になったのは、プロデューサーの『撮影所の連中が最後の記念写真を撮りたいと言っている』という殺し文句だったんです。うまい殺し文句でしたね、これが。一緒に映画作りをしてきた人たちの多くが、あと2、3年の間に定年で撮影所を去っていくんですね。コロッとまいって、1枚の記念写真のつもりが、1本の映画を撮ることになった」(「アサヒグラフ」1999年6月11日号)

 こうして、『鉄道員』は難産の末、出発進行しました。