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連載昭和の35大事件

2019/11/24

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, 歴史, メディア

昌子が三枝子の母に送った手紙

 昌子はさすがに2度目の自分の行為に心の震えるのを禁じ得なかったろう。貴代子と大島に向う前夜、三枝子の母静子宛にこういう手紙を書きおくった。

 三枝子様には休学との御事、私心配でなりません。3年生の方々やクラスの皆様に御住所を聞かれましても、私存じませぬ故に申し上げられませぬので、小母様お手数ですけれど御知らせ下さいませ。お伺いさせて頂こうか知らとも考えておりますれど、もし失礼にでもなりましてはと御遠慮申しておるのでございます。

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 第2の罪を犯そうとするものが、第1の罪を偽装した手紙である。尤も罪ではあるまい、自殺幇助とはほど遠い、女学生の小さい感傷に過ぎなかったろうが、この感傷が行為をともなって重なった時、世間はこれを許さなかった。親友2人までも死に誘った女として、彼女の非常識な異常神経を極めつけた。

 今度は昌子の番である。

 あれ以来、忍町の自宅に引きこもり、2人の冥福を祈っていた昌子は、4月29日朝10時急死した。ずっと風邪気味だったらしいが、医師の診断書は脳底脳膜炎とあった。枕頭には2人の写真を飾り、香煙が立ち昇っていたという。5月2日葬儀が営まれたが、実践高女から親友3人が参列した。これで3人の登場女学生は相ついで世を去ったわけである。翌3日行われた実践高女の春の旅行、東京湾一周の船旅では、全校生が貴代子らの位牌――三原山の白煙を望んで黙祷をささげたといわれる。

 生前、貴代子が念願していたもの――それは兄謙二と親友福子が結ばれることだったが事件が収まって間もなく福子は松本家の人となった。位牌と兄嫁――貴代子の遺志は2つともかなえられたのである。

富田昌子の死を伝えた時事新報記事

死のう団が三原山に次々とおしかけた

 三原山が万葉集的耽美の墓場となってから天下の死のう団がおしかけてきた。そのトップが――

(その1)貴代子事件から10日目、三原山で自殺の恐れありと元村署に保護されていた岩本富正(25)という神奈川県の男が、身柄引取りにきた実兄と義兄を、折角きたんだから火口を見物しようと誘い、2人の兄が火口をのぞきながらたまげているスキに、蛙のようにとびこんでしまった。

(その2)4、5人の見物客に交っていた一青年、火口から5、6間はなれた時、忘れものでもしたように急に回れ右をし、オーバーと上衣をぬぎすてると、火口めがけて走幅跳、一同がオヤッとふりかえった時には、助走で勢いをつけた彼の身体は宙に浮いていた。上衣の中に明治製菓雇員大森義衛(26)の辞令があった。

(その3)御神火茶屋の写真屋が一青年の挙動を怪しみ追うと――「これ以上おれを苦しめるナ」といって上衣をなげつけ「その洋服でおれの身許は分るはずだ」と言い残して見事ジャンプ。だが身許は分らずじまい。

(その4)昭和8年5月7日の日曜は朝から大賑いだったが、飛びこみ患者も6名という新記録。その4番目にジャンプしたのがロイドめがねの青年、その青年が火口に呑まれると、その場に立ちつくして一心に頭を下げている青年があった。危ないとみて元村署員が保護したが、これが死の立会人男性NO.1、大阪の木箱商岡田茂(28)といい、親と衡突して上京の汽車中で、京都の自動車業山田常太郎(28)と知り合った。山田から三原山で投身するから立会ってくれといわれ承諾、約束通り山田の死を見届けていたもの。