3時間逆さ吊りから生還した少女
つづいて第2の奇蹟。
昭和10年1月27日、日曜の朝10時頃、すでに2人の投身者をだして、火口は人で埋まっていた時、17、8歳の少女がとびこんだ。二百尺下の岩磐にマリのように叩きつけられ、そのはずみで一転、岩磐下の裂目に、頭を下にたれ下った。火口からみると、丁度スベリ台で頭を先に、逆さにすべっているような恰好である。人々が――「みえる、みえる、あんな姿でかわいそうに!」と騒いでいるうち、少女の手が動いた。「生きている」期せず助けよう! という声が上った。
村の青年が漁業用のロープをとりに馬で元村へとび、元村署から警官2人もかけつけた。しかしこの間に3時間が経過した。火口の人々は声を限りに「助けにゆくから、しっかりするんだぞオ」と叫びつづけていた。やがて村の青年金森千代治君(28)が、消防用の刺子帽をかぶり、ロープを十文字にまきつけ、声援をうけながら下降していった。三百尺のロープはもうあといくらも残っていなかった。金森君が現場につくまで、少女はとびこんだ時の姿勢――逆さ吊りのままだった。少女はやがて金森君の背中にしっかと背負われた。この少女は富山県生れの岸本美津枝(17)といい、東京で女中をしていたが、恋人の病身を悲観、心中にきたもので、相手の青年もとびこんだらしいがはっきりしない。少女は鼻底骨と前額部を岩磐でうちくだかれ、目もあてられぬ重傷だった。
島に建てられた「一寸お待ち下さい」の立看板
こうして御神火にイケニエが備えられる毎に、大島は客で賑わった。旅館がふとり、ツバキ油が売れた。だが、それでよいのか。時まさに非常時、村の中には漸く反省の色もでてきた。島の郵便夫に関口三郎という老人がいたが、自殺防止に老いの一心をもやしたらしい。彼は村から村へ歩く道中、こういう看板を背負っていった。
国家非常時に際し、あなたの生命は万金に替へ難し、爰に自分は国家の為に(一寸お待ち下さい)御相談に応じます。関口三郎
やがて火口にも「一寸お待ち下さい」の立看板が建った。山道にも、村にも、三原山病患者は目に見えて減少していったようである。尤も日本が三原山で湧いている時、欧洲はヒットラー内閣が成立して緊張を加えつつあり、やがて日本は国際連盟を脱退した。内に神兵隊事件、満洲国に帝政、ついで二・二六事件の突発――物情騒然たるにおよんで、三原山は完全に青少年から見すてられた。
三原山は静かになった。反省するが如く、冥想するが如く、寂として声がなかったが、やがて呑みこんだ不潔物を吐きだすが如く、昭和15年8月19日未明、突如数十丈の白煙を冲天に噴きあげた。三島山自らも人間を寄せつけなかったのである。
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