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連載昭和の35大事件

女学生の同性心中からはじまった猟奇の「三原山ブーム」とは――沸き起こる“自殺熱”を盛り上げた報道

女学生の同性心中からはじまった猟奇の「三原山ブーム」とは――沸き起こる“自殺熱”を盛り上げた報道

「貴代子は泳ぐように火口へ消えていった」

2019/11/24

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, 歴史, メディア

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貴代子は泳ぐように火口へ消えていった

 道々――「行きづまったわ、駄目、駄目!」とやんちゃ娘のように身を震わせるので――「何をいうの、お互いにこれからじゃないの、生きてこそ人生だわ」と昌子が叱るようにいうと――「この歌――ねえ、知ってるでしょう。花の色はうつりにけりないたずらに、我身世にふるながめせしまに、これどう思う。小野小町が乞食のようにうらぶれて、88まで生きた、その生き恥の歌よ、女として醜態の極みと思わない?」――いつの間にか頂上へきていたが、まさか、という昌子の油断もあった。それに生地獄の鳴動にすくんで昌子の足は1歩1歩退っていた。

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 だが、一瞬、貴代子の血の引いた表情をみた時――「いけない、貴代子さん、いけない!」と叫びながら袖にすがったが、もう遅かった。彼女は懐中していた封筒を抛りなげると――「クラスの皆さんによろしく」の一語を残して、泳ぐように火口へ消えていった。御神火番人の雨宮甚松(24)が、後で語ったところによると、2人のもつれを遠くからみているうち、1人は紫の着物をフワーッと浮かしながらとびこんでいったが、それが陽光に映えて、まるでセミがとんでいるようだったという。昌子は、まもなくかけつけたこの雨宮に保護されたのである。

 貴代子が火口に残した封筒には松岡福子とその母ちかさん宛の2通の遺書があった。福子宛には――「あの色好みの業平も遂に、思うこといはでぞただに病みぬべき、われに親しき人しなければ、と感じました。紫室寺端風」とあった。紫室寺とは万葉好みの彼女のペンネームだった。ちかさん宛には――「私のもっとも嫌っている私といふ人間を殺して了います、それが他方の私の最善だと思われてなりません」とあった。ともに身をなげた2月12日付だった。

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 昌子はいく度か死を思い止まらせようと諫言したろうが、結果としては「死の立会人」となってしまった。新聞で「女学生の猟奇自殺」と騒がれ、批判がきびしくなると、実践高女では、下田歌子校長を中心に善後策が講じられ、昌子は帰京するなり郷里の埼玉県忍町に身をかくした。丁度その日、読売新聞は――「学友の噴火口投身を二度も道案内、三原山に死を誘ふ女」として昌子の奇怪な行動を報じた。

「死を誘ふ女」読売の初報記事

自殺の立会いは貴代子が2度目だった――

 昌子の1級上に真許三枝子(24)というのがいた。本所区太平町4-7、運送業杵次郎さんの三女だが、この女学生が、貴代子事件の約1ヵ月、1月7日の夕刻友達の処へゆくといったまま帰ってこない。学校からは長期欠席を問い合せてくるし、不審に思って家人が彼女の部屋を調べてみると――「自活のため家出するが心配しないで下さい」という遺書がでてきた。同家ではそれを信用していずれ帰ってくるものと考えていたが、元村署で昌子を調べているうち、意外にも、この三枝子も彼女が死の案内をしたことを自供した。

 それによると、かねて三枝子の病身に同情しているうち、三枝子は「三原山で死にたい。だが1人では怪しまれるから、一緒にきて頂戴」といわれるまま、去る1月8日元村につき、三原山に登った。火口にきた時――「あなたがいてはとびこめないから下りて頂戴」といわれ、昌子は気になりながらも山を下りたが、その時――「このことは5年間誰にもいわない」という固い2人の誓いだったという。元村署ではその後三枝子について調べたが、昌子のいう通り投身したものとみている。5年間の秘密は、貴代子の三原山讃美によって破られた。貴代子が校庭での語らいで――「天国にゆく日が近づいたわ」と死をうちあけた時、昌子はうっかり三枝子との誓いを破った。貴代子は――「ね、お願い、私とも一緒に三原山に登って頂戴、でないと……」暗に三枝子との秘密約束を皆に話しちまうわ、と匂わせた。