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 こうして三原山での自殺熱は毎日上昇、平日で霊岸島を出る船には150人余、日曜日はこれが1500余名にはね上る。元村署は上野署長以下たった4人しか警官がおらず、毎日毎夜保護されてくる自殺病患者で署内は小使室まで超満員、中には――「火口への投身相かなわずイカン千万、やむなく署内で服毒す」という厄介な重症患者も出るにおよんで上野署長はとうとう悲鳴をあげ、警視庁へ増員のSOSを発する始末。一方、御神火小屋の高木久太郎、雨宮甚松両君は朝から晩まで一刻も目がはなされず、怪しいと思って「もしもし!」と声をかけると「ふざけるナ」と食ってかかった上、ハデにとびこんでゆくタンカ型まで現われて、山上また処置なしの日もある。

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探険により明らかとなった凄惨な生地獄

 この三原山ブームに最初に目をつけたのが時事新報だった。多くの生霊を呑んだこの火口底を探険することになり、4月30日、同社の久保開作、秋田貞男両記者が防毒用酸素マスク、防熱用皮服に身をかため、一人ずつ針金入りナワ梯子を伝わって下降していった。一人は120尺まで下降したが、頭上から小石や熱砂が崩れ落ち、大変な苦しみだったらしい。両記者の見たところによると、火口壁は、地底まで切り立ち、何一つとして投身者の身につけたものは引っかかっていなかったという。

 それから1ヵ月後、今度は読売新聞社が周到な準備と大がかりの設備の下に大探険をやった。火口にクレーンをすえつけ、ゴンドラで下降することになり、岩田得三記者と真柄秋徳写真班がこれも別口に決死その任に当った。ゴンドラと地上とは電話で刻々に連絡し岩田記者は1250尺まで下降、その火口底で、16、7歳の小店員風の死体を発見したという。両社の探険によって、凄惨な生地獄の実相が伝えられ、三原山病患者の熱は冷めるものとみられていたが、死のう団にとってはむしろ魅力とさえなったらしい。三原山の声望いよいよ高まってゆく。

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 そこへ奇蹟が起った。

発見された2人の生存者

 それは昭和8年9月28日、御神火は漸く暮色に包まれていた。と、火口壁から1人の女が全身血まみれになって這いだしてきた。つづいてもう1人。その夜、かけつけた元村署員が島村病院に収容手当した結果、2人とも3週間程度の負傷ですんだ。2人は神奈川県健康診断の看護婦で三原松枝(23)中沢久子(21)といい、奇蹟の生還をこう語った――この日の午後3時頃抱き合って投身したところ、三丈位のところに突きでている岩磐にうけとめられ気絶したらしい。そのうちに急に寒さをおぼえて松枝が息をふき返した。見ると自分は岩磐に腰かけるような姿勢、すぐ足許から下は果てしない噴煙の絶壁、その底から赤い火が悪魔の舌のように立ち昇っていた。抱き合ってとびこんだ時は夢のようだったが、さて、自分が生き返ったとなると、この生地獄の恐しさで身体がガタガタ震えだした。そばで久子さんがねむったように横になっているのを、叩いたりさすったり、やっと息を吹き返させた。ともすればズルズルに崩れ落ちて、断崖と戦うこと3時間、やっと這い上ったというのである。

三原山噴火口底降下探検「成功」を報じた読売新聞