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激動の時代を生きた麻布創立者・江原素六

 それでは、麻布の創立者である江原素六とはどのような人物であったのだろうか。

 江原素六は、1842年(天保13年)、幕臣の長男として江戸で生まれた。父が幕臣とはいえ、その食禄もわずかであり、生活は困窮していた。しかし、素六は学ぶことについてはひときわ貪欲であった。素六は漢学や蘭学、洋算、そして剣術などの学問に勤しんだ。

麻布学園のパンフレットより

 その甲斐あって、素六は20歳にして解体寸前であった幕府軍の指揮官となる。

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 江戸幕府が滅亡したあと、素六は沼津に設置されていた陸軍局のもとで沼津兵学校の経営管理に当たった。その後、明治政府の命令で兵学校が廃止された後も、集成舎(現在の沼津市立第一小学校)、沼津中学校、駿東高等女学校(現在の沼津西高校)などを設立し、沼津の教育に尽くした。

 そして、東京に戻った素六はカナダ・メソジスト教会のミッションスクールとして設立された麻布鳥居坂にあった東洋英和学校の幹事となる(のち校長に就任)。そして、1895年(明治28年)にその東洋英和学校内に麻布尋常中学校を創立、初代校長を務めた。これが現在の麻布の前身である。

江原素六の残したことば

 決して恵まれていない生い立ちだからか、素六が遺したことばに通底しているのは「弱者への温かな眼差し」であるとともに、「権力」を疑ってかかる姿勢だ。それらがよく現れている素六の語録を3つ紹介したい。

「一体日本人の考えでは、何だか政府が一番大きいように思って居る。文明の進んだ国においては、政府の力などは至って微弱なものである」

「人を待遇するには、人の自由と権利を尊重しなければならないと同時に、自らも独立自尊の徳に満ちておらねばならぬ」

「労働者は『人』であるとの自覚から、各個人が独立の品位を保つ為に、労働に対する正当なる労銀を要求する権利を、欧米にてははやくから法律を以て認めているのである。この正当の労銀を要求するには、個人の力では目的を達し難いゆえに、団体の力を以てこれに当たるのである。富める者、地位ある者は、とかく傲慢に陥り易いものであるから」

©iStock.com

 これらのことばを見ると、「反体制的・反権力的」なものが目立つ。わたしはこれを旧幕臣としての薩長藩閥政府への素六の反発とは単純に受け取ってはいけないと思う。そうではなく、時の権力がどう変わろうとも、決してブレない確固たる個性を各人が備えるべきであるという強い信念があったのではないか。

 この創立者の志が麻布生たちに脈々と受け継がれているのである。先述した卒業生の一例でもこのことがよく分かるだろう。