中国に比べると実にゆるい制度
中国の王朝では、天子の家系にほかの血が混ざらないように、猫の子一匹入る隙のない後宮を作りました。後宮に出入りする男性は、去勢した宦官に限られます。
日本では江戸時代にようやく、男子禁制の大奥が作られます。その前の時代の朝廷は、男性も女性も、天皇の奥向きに平気で入ることができました。ガチガチに固めていた中国の後宮に較べると、実にゆるい制度です。
こうしたことから、歴代の天皇の中には、実は天皇の実子でない人が紛れ込んでいる可能性もある、と考えられます。実際、朝廷の周辺に「御落胤だ」と噂される人がたくさんいました。『平家物語』にも、平清盛が白河上皇の御落胤だという話が出てきます。
家だけでなく血も大切だと考えられるようになったのは、江戸時代に幕府が朱子学を重んじてからです。中国から伝わってきた儒教は、ご先祖様を大切にするからです。
しかし徳川将軍家や大名家を見ても、子から孫へと血がつながり続けた家は、さほど多くありません。跡継ぎ不在でお家断絶になれば、今で言う大企業が倒産して従業員と家族が路頭に迷うのと同じ状態になってしまいます。そこで徳川家は御三家や御三卿を作り、前田や黒田や島津のように大きな藩なら支藩に一門を配して、本家の血筋が途絶えたときに養子をもらうケースがありました。
「道鏡事件」とは?
歴史的に見て、天皇には男性が望ましいと考えられてきたのは確かです。理由は、軍事の指揮官になるためです。今でこそ天皇は雅やかな存在ですが、現在の皇室が国を治めるに至ったのは、戦いに勝ったからです。古代には、政治よりも軍事指揮官としての役割が大事だったので、成人男性であることが望ましかったのです。
女性天皇は、継承候補の男性皇族が成人になるまで中継ぎとして時間を稼ぐというのが、本来のあり方でした。その意味で言うと、史上8人いる女性天皇の中で、聖武天皇の娘である孝謙天皇(重祚して称徳天皇)だけが、中継ぎではありません。
この孝謙天皇は僧の道鏡を寵愛し、太政大臣禅師、次いで法王にまで引き上げて問題になります。宇佐八幡からは「道鏡を天皇にすれば、天下は泰平になる」という神託まで出て、道教が天皇になろうとした。結局、天皇に仕えていた女官、和気広虫の弟、和気清麻呂が勅使として宇佐八幡へ派遣され、「私の前に現れた神は、『わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず』と、神託を否定した」と報告して、道鏡の即位を防ぎました。これが貴族の総意だったでしょう。
僕の見方ですけれども、この「道鏡事件」は宮中のトラウマになったのではないでしょうか。女性天皇を立てると、同じようなことが起きる。だからこのあと江戸時代まで、女性天皇は現れません。
天皇制が成熟して戦争の指揮を執らなくなると、成人男性である必要性が薄れます。摂関政治になれば、むしろ子どもの天皇のほうが都合がいいので、中継ぎに女性天皇を置く必要もありません。女性天皇8人のうち、推古天皇や持統天皇など6人が奈良時代までに集中しているのは、そういう理由もあると思います。