水泳のエリートではない60代の女性が破天荒な記録に挑戦、その達成までの経緯が『対岸へ。 オーシャンスイム史上最大の挑戦』(ダイアナ・ナイアド 菅しおり[訳])として刊行された。ノンフィクション作家の黒井克行さんが本書を読む。
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何故、そこまでして?
ウルトラマラソンや高峰冬山登山に挑む者への凡人からの素朴な疑問である。
これらは半ば命を賭した人間の限界への挑戦であり成功すれば称賛の嵐、叶わなければ「残念」のひと言でやがて忘れ去られる。
本書の著者もその一人に数えられるのだろうが、それにしても規格外の“挑戦者”である。息を呑むどころか、読んでいて窒息しかねないドキュメントだ。なんせキューバ~米フロリダ間の百六十キロを一気に泳ぎきろうというのだ。その間、食事をはじめとした全てが海の中で行われ、五十時間以上一睡もできない。
著者は水泳で五輪を目指すもエリートアスリートではない。幼少の頃から性的虐待を受け、親との関係で深い傷を負い、順風満帆の人生のスタートを切れなかったが、二十代で飛び込んだウルトラスイミングの世界で人生の波に乗った。二十六歳でマンハッタン島一周の女性初の快挙を遂げ、これを機に挑戦を続け、この横断に臨むのである。プールの百六十キロではない。この海域はサメの遊び場と言われ、猛毒を持つクラゲの大群が三キロにわたって浮遊し、予測のつかぬ反時計回りの渦流に三メートルの高波も起り、さらに風速毎秒二十二メートルの突風と熱帯性の雷雨にも襲われる。そもそも、穏やかで美しすぎる紺青の海も、スタートして見えるのは意気消沈させる広大な水平線だけであり、挑戦しようと発想するスイマーなど彼女以外あり得なかった。やっぱり甘くはなかった。用意周到で臨むも失敗。そして引退。
でも、六十歳にして燻ったままでいた夢が再燃した。
それから四度の挑戦を試みる。既に六十四歳になったが、ここまで支えてきたかけがえのない仲間がいた。が、何故そこまでして?
メッセージがあった。
「何があろうとあきらめるな」「夢を追うのに決して遅すぎることはない」と。
気がつけば、中断していたジョギングをまた始める凡人の自分がいた。
ダイアナ・ナイアド/1949年ニューヨーク生まれ。幼少より水泳に親しみ、20代でウルトラスイミングの世界へ。26歳でマンハッタン島一周を成し遂げ、新記録を樹立。64歳で、長年の夢だったキューバ~フロリダ横断泳を成功させる。
くろいかつゆき/1958年北海道生まれ。ノンフィクション作家。著書に、『男の引き際』『高橋尚子 夢はきっとかなう』などがある。