まかりまちがえば突き殺された
三宅坂のところまで来ると、また銃剣の一隊にとりまかれ、これから先は通せないから戻れといって聞き入れてくれない。それで、私は「半蔵門のところで通してくれたのだし、桜田門は眼の前であるから」といって更に頼むとやっと承知してくれたので、どうやら無事に検事局に着くことができた。
三宅坂のところでは、参謀肩章をつけた陸軍の将校連中が大勢銃剣の一隊に阻止されて陸軍省や参謀本部に入ることが出来ずにウロウロしていた。
検事局に着いてから警視庁に連絡して色々報告を聞いて見ると、これらの兵隊さん達は叛乱部隊であって、襲撃後もそのまま占拠しておるのだということが判り、私も知らぬが仏で、これらの兵隊さん達に力んで来たが、まかりまちがえば突き殺されたかも知れなかったと思い冷汗をかいた次第である。警視庁も叛乱部隊に占拠されておって小栗一雄警視総監以下警視庁の幹部は既に神田錦町警察署に移っていたのである。
機関銃の弾94発が命中していた渡辺大将
これから、私は二・二六事件の民間側の主任検事としてこの事件の捜査に当ったのは勿論、戒厳令が布かれてからは、検事局側の代表として戒厳司令部参議員(参議院会議の構成メンバー)に任命され、又軍官捜査連絡会議にも検事局側の代表委員としてこれに参加し軍側の捜査に協力することになった。警視庁側の委員は、当時の特高部長の安倍源基氏及び特高課長の毛利基氏であり、陸軍側の委員中には、その後太平洋戦争当時の首脳幹部となった人が多く、当時の軍事課高級課員武藤章中佐、兵務課長田中新一中佐、軍事課々員有末精三少佐、同課々員真田穣一郎少佐などなど錚々たる人々がおった。
この日叛乱部隊に暗殺された主要な人物は斎藤実内大臣、岡田啓介内閣の高橋是清大蔵大臣、教育総監渡辺錠太郎陸軍大将らであって、岡田首相は難をのがれ、侍従長鈴木貫太郎海軍大将は負傷したが生命はとりとめた。ただこれらの人々の死骸を見て最も眼を蔽わされたのは、渡辺大将と高橋蔵相であって、渡辺大将は、機関銃の弾94発が命中しており、又後頭部等に3ヵ所も致命的切創を受けておって、寝室の周囲等には無数の弾痕があった。高橋蔵相も拳銃の命中弾3ヵ所、大小切創5ヵ所という傷跡で残忍悽愴の感に打たれ、洵に遺憾に思った。
次に「陸軍大臣告示」から討伐までの経緯について一言したい。二・二六事件の首謀者である青年将校連の間では、昭和11年2月22日に集団的一斉蜂起の最終的決定をなし、2月25日夜麻布第三連隊に叛乱部隊を集結し、翌26日午前5時を期して予定の計画を決行したのであるが、この事件が勃発するや、陸軍の最高首脳部は直ちに宮中に集り、これが鎮圧策を講ずるために陸軍々事参議官会議を開き鳩首協議の結果、軍事参議官一同の意向を文書にしてこれを叛軍に示して鎮撫せんとしたのである。
ところが、朝香、東久邇の両大将宮も軍事参議官であってこの会議にも列席しておられたから、軍事参議官一同の意向として発表することは皇室に累を及ぼす虞があるという意見も出たので、同席の陸軍大臣の川島義之大将の承諾を得て、この意向を「陸軍大臣告示」という形で発表することになったのである。