昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

連載昭和の35大事件

殺された大将は「機関銃94発が命中していた」 担当検事が振り返る、残忍すぎた二・二六事件とは

陸軍上層部の「事勿れ主義」が見過ごした“クーデターの兆候”

2019/12/01

飛行機からまかれた「今からでも遅くはない」の告示

 この告示が決定したのは、26日の午後2時過ぎ頃であるが、叛軍はこの告示や軍事参議官連の叛軍幹部と膝をつき合せての説得に対しても承服せず、彼等は真崎甚三郎大将を首班とする一種の軍事内閣の成立を熱望して一歩も譲らなかったのである。それで鎮撫の方法として叛軍を一応正規の部隊と認めることになり、同日午後4時過ぎ頃香椎警備司令官は叛軍を隷下の渋谷部隊(渋谷大佐の率いる歩兵第三連隊)に編入せんとしたが、叛軍の幹部連はこれに服せず、寧ろ小藤部隊(小藤恵大佐の率ゆる歩兵第一連隊)に編入されんことを要望したのでこれを許し一応小藤部隊に編入することになったのであるが、尚も彼等は陸軍上層部の弱腰を見すかしてなんと説得しても占拠地から引上げることを拒否しつづけたのである。

 そこでやむなく同日午後4時20分頃に至り戦時警備令を発動し、他面尚引続き説得に努めたのであるが、どうしてもこれに応じないので翌27日午前4時20分遂に戒厳令を宣布することとなり、香椎警備司令官が戒厳司令官に任命されたが、陸軍最高首脳部としては彼等の説得に最後の努力をしたのである。それにも拘らず少しもその効なく、一方、天皇陛下からはお叱りを受ける始末で、その翌28日には到頭次のような奉勅命令が発せられたのである。

「奉勅命令
 戒厳司令官ハ三宅坂附近ニ占拠シアル将校以下ヲシテ速カニ現姿勢ヲ撤シ各所属師団ノ隷下ニ復帰セシムヘシ
    昭和十一年二月二十八日
    奉勅 参謀総長 載仁親王」
 載仁親王とは閑院元帥宮のことである。

 この奉勅命令から推しても陛下がいかに御宸襟を悩まされたがが窺われる。

 奉勅命令が出ても叛軍は尚もこれに応じないので、翌29日愈々討伐命令が発せられ彼等も漸く観念して同日午後2時に帰順することになったのである。その間、大久保大尉筆にするところのあの有名な「今からでも遅くはない」という名文句の「兵に告ぐ」という戒厳司令官の帰順勧告の告示が放送され又飛行機からこのビラがまかれたのである。

司令部から出された「下士官兵二告グ」 ©文藝春秋

陸軍上層部の「事勿れ主義」が見過ごした“クーデターの兆候”

 然し、多少とも当時の陸軍部内の事情に通じておるものには、何れは二・二六事件のような事件が勃発するであろうということは予想されていたのである。

 殊に、昭和11年初頭に最も過激な国家革新の思想を抱懐し一斉蜂起の機を虎視眈々として覘っておった青年将校の一団の所属する歩兵第一連隊や第三連隊を隷下にしておる第一師団の満州移駐が発表されてからは、彼等は陸軍上層部が自分達を敬遠し遠島仰付ける意味でこの処置に出たものと深く思い込むに至ったから、事は一層面倒になり、彼等は必ずや渡満前に一斉蜂起を決行するだろうと考えられていたのであって、斯様な状勢にあることは陸軍上層部の人達は十分承知していた筈である。

©iStock.com

 然るに、これに対して何等の対策を講ぜず唯々拱手傍観その日ぐらしの事勿れ主義の態度で終始していたため、二・二六事件が勃発するや、恰も天災地変が一時に突発したかのように周章狼狽、ただ鎮撫だ説得だと騒ぐのみで却って叛軍側に足許を見すかされて引き廻され、結局は、陛下の御一言でやっとフラフラ腰を立て直したのであって、陸軍上層部の無能というか、あのブザマな姿を見ては、洵になげかわしい次第である。

(元最高検察庁次長検事)

この記事の写真(8枚)

+全表示

ツイッターをフォローして最新記事をいち早く読もう

文春オンラインをフォロー