解説:“言論の自由”にトドメを刺した「二・二六事件」とは

 昭和の日本が敗戦に向かう歴史の中で、大きなポイントを挙げるとすれば「満州事変」(1931年)と「二・二六事件」(1936年)になるのではないか。どちらも、それまでの時代の流れを変え、以後の時代の空気を決定した「クーデター」だった。しかし、「二・二六」はいまに至っても不可解な点が多い。

「『二・二六産業』の異名がつくほど、おびただしい著作物を産出している」(秦郁彦「昭和天皇の二・二六事件」)のに、いまだに「考えてみると、まことに『変な』事件である」「「二・二六――この不可解な事件」(須崎慎一「シリーズ昭和史No.2 二・二六事件」)といわれる。それが、83年たったいまも人々の関心を集め続けている理由だろう。今年8月にも、海軍が記録していた文書を基に、「全貌二・二六事件~最高機密文書で迫る~」がNHKスペシャルで放送された。

警視庁特別警備隊“新選組” ©文藝春秋

 本編の筆者は事件の民間側主任検事だが、本編の内容は、当日の本人の行動と、陸軍大臣告示に絞られていて「秘録」には程遠い。それは、事件から19年たった本編の時点でも、関係者が生存していて差し障りがあったからだろう。しかし、本編で筆者はこう書いている。

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「結局は、陛下の御一言でやっとフラフラ腰を立て直したのであって、陸軍上層部の無能というか、あのブザマな姿を見ては、洵(まこと)になげかわしい次第である」

大混乱の軍と、“ブレなかった”昭和天皇

 その通り、事件対応で見せた軍中枢の右往左往ぶりはこっけいなほど。新聞メディアは事件を契機に報道姿勢を転換。「言論の自由はトドメを刺された」と評する人もいる。国民も、事件6日前の選挙では「反ファシズム」の方向を支持したのが、事件を経て約1年5カ月後に始まる日中全面戦争では、日本軍の戦勝に熱狂する。そうした中で、わずかな側近の助けを得て態度がブレなかったのが昭和天皇であり、その力が反乱にトドメを刺した。

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「午前6時20分、御起床になり、甘露寺(受長・侍従)より事件の報告を受けられる」。2019年に完成した「昭和天皇実録」の1936年2月26日の項にはこう書かれている。午前7時10分、昭和天皇は本庄繁・侍従武官長を呼ぶ。「事件発生につき恐懼に堪えない旨の言上を受ける」「以後頻繁に武官長をお召しになり、事件の成り行きをご下問になり、事件鎮圧の督促を行われる」。この日の武官長の拝謁は計14回。広幡忠隆・侍従次長も計6回だが、これは鈴木貫太郎・侍従長が襲撃されて重傷を負っていたからだろう。

 目立つのは「宮内大臣湯浅倉平に謁を賜う」。午前10時30分から計5回。最後の午後5時30分は30分にわたっている。さらに、午後3時5分に拝謁した一木喜徳郎・枢密院(天皇の諮問機関)議長には「なるべく側近に侍すべきご要望を伝えられる」。結局、一木は本庄、広幡、湯浅、木戸幸一・内大臣秘書官長と同様、3月7日まで、宮城内に宿泊する。

 木戸は明治の元勲・木戸孝允の孫で華族の元商工(現経産)官僚。広畑も華族の元逓信(現総務)官僚であり、一木は元東京帝大(現東大)教授で青年将校らの“襲撃候補”とされ、湯浅はその弟子の元内務(現厚労、警察、自治)官僚だった。昭和天皇は発生から3日間に本庄侍従武官長を計41回呼んでおり、実録公開時話題になったが、それは状況を聞き、鎮圧を督促するため。彼以外は、親英米派の「重臣ブロック」に囲まれていた。

 青年将校らは「君側の奸」として打倒を図ったが、天皇は自らの意思で自分の周りに置いた。彼らは木戸を中心に、反乱軍に好意的な軍中枢や一部の皇族が求めた暫定内閣構想に反対した。この時点でクーデターの失敗はおおよそ見えていた。