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新聞社に「トラックで60人が機関銃が押し掛ける」大騒動も

 新聞社と通信社も反乱軍の襲撃の対象となった。内務省警保局「昭和十一年中に於ける社会運動の状況」=高橋正衛「二・二六事件」より=によれば、東京朝日新聞社をはじめ、日本電報通信社(現電通)、国民新聞社(徳富蘇峰主宰)、報知新聞社、東京日日新聞社、時事新報社(福沢諭吉創刊)に反乱軍約60人が機関銃を据えたトラックで押し掛けた。

 実際の被害は東京朝日のみ「活字ケースなどを顚覆、損害約3万円」で、ほかは「被害なし」。代表者を呼び出して「蹶起趣意書」を手渡して新聞掲載を要求した。同盟通信が入っていないが、業務開始が同年1月1日で、青年将校らに認識がなかったのか。被害状況を見れば、朝日を「反軍的」と敵視していたことが分かる。

 朝日で対応したのは、のちに政界入りして首相になる直前に急死した緒方竹虎。当時は主筆だった。

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 27日の夕刊(前にも書いたが、当時の夕刊は翌日の日付)はどうだったか。活字をひっくり返された朝日の被害は、軍法会議判決でも「一時新聞発行を不能ならしめ」とされたが、実際は予備の活字があり、すぐにでも夕刊が発行できる状態だった。「昼すぎになって、夕刊を出すか出さぬかというので協議した」「僕は『夕刊を出そうじゃないか』と言ったが、それでは余計刺激することになるだろうという慎重論があり、この慎重論が強くなって、結局出さなかった」と緒方は回想している(高宮太平「人間緒方竹虎」)。

「もう一度襲撃する」軍隊の脅迫で問われた“新聞の生命とは何か”

 大阪朝日の夕刊にも事件の記事は1行もなかった。「朝日新聞社史大正・昭和戦前編」は「ただ一社だけ軍隊に襲われたという特殊な事情を考慮して、『蹶起部隊』を刺激して再襲撃を企図させないよう、二十六日は夕刊を発行しないことを決定した。再襲撃の恐れは多分にあった。襲撃部隊は引き揚げる際、『どうしても新聞を出すなら、またすぐ来てもう一度襲撃する。その時はいまよりもっとひどいから覚悟しておれ』という言葉を残していた」と説明している。確かに、武器を持った軍隊に襲撃されるのは人間の生命の危機だ。しかし、事態は、新聞の生命とは何かが問われた、新聞社として最も重大な局面だったのではないか。

国会議事堂前を行進する反乱軍兵士(「昭和ニュース事典第5巻」より)

 他の新聞のほとんども、内務省通達に従って事件には触れなかった。しかし、当時、時事新報記者だった山本文雄「ある時代の鼓動」は書いている。

「全ての新聞が青年将校の反乱の一部さえも報道できなかったが、『東京夕刊新報』だけは敢然禁止を侵して事件の概要を報じた。第1面にトップ4段抜きで『少壮軍人クーデターを行い 殺気惨憺の帝都 蔵相、重臣暗殺の報に人心恟々たる不安の二月二十六日』の見出し。さらに中5段で『将兵一千名蹶起、重臣閣僚を一斉襲撃』の見出しで報じていた。午後4時になってようやく発売禁止となり、スタンドから押収されたが、全く新聞の存廃をかけた大胆な抵抗であった」。

 東京夕刊新報は1914年に中島鉄哉が創刊した夕刊紙。この二・二六事件の際の抵抗に加えて、1938年、中国・南京親日政権の汪兆銘が来日した際、それをスクープして発行停止処分を受け、そのまま同年7月、廃刊したとされる。ただ、現物はどこにも収蔵されていないようで、これ以上の確認はできていない。

事件について全く報じなかった2月27日付(実際は26日)夕刊(東京日日新聞)

 報知は副社長の指示で「蹶起趣意書」全文をゴシック活字で1面に載せたが、削るように命令され、白紙で発行した(前坂俊之「言論死して国ついに亡ぶ」)。時事新報は1面トップで「東西の各取引市場 けふ一斉に立会休止」の見出し。理由は書かず、「巧みに当局の目をくぐり抜け、何か異常な事件が起こったことを示唆する編集を行った」と「ある時代の鼓動」は書いている。それ以外の新聞には事件をうかがわせる記事はない。東京日日の社会面トップは「きょうもまた雪! 中央気象台の『しばらく降り続く』の予報に青物市場の相場にはピンと響いて……」という話題だった。