「すぐ行くから、そこを動くな」
斎藤が所属していた同盟通信にもスクープ話がある。鳥居英晴「国策通信社『同盟』の興亡」は「同盟社会部長だった岡村二一によると、同盟社会部はこの事件の発生をつかみ、警保局からの『記事差し止め』の通達が出る前に、第一報を世界に伝えたという」と書いている。岡村は戦後、東京タイムズを創刊する。その日、同盟社会部の宿直は入社直後の小田善一(のち、岡村の後任の東京タイムズ社長)。松本重治「上海時代中」は、岡村から聞いた話として次のように書いている。
朝6時ごろ、社に電話がかかってきた。「小田君が電話を取ると『何か大変な事件が起こったそうですが、そちらにニュースはありませんか?』と、ある地方紙の東京支局かららしかったが、『いまのところ、格別のニュースはありません』と返事した。しかし、小田君は何か虫が知らせたのか、すぐ岡村社会部長宅を呼び出し、『ちょっと変な電話がかかりましたが、取材のため社外に出た方がよいか、デスクに座っていた方がよいか、お指図をください』と話した」。
岡村は「すぐ行くから、そこを動くな」と言ったあと、自宅から電話で警視庁を呼び出した。「警視庁の交換手が応答するやいなや『オイ、大変だよ。みんな、しっかりしろ』と一喝した。交換手は『ハイ』と神妙な声で返事をした。そこですかさず岡村君は『その後の状況はどうだい?』と高飛車に尋ねると、交換嬢はてっきり警視庁のお偉方からの電話だと思い込んだらしく、『いままでの情報によりますと、今朝一部青年将校が決起しました。そして、元老、重臣、閣僚の大部分が殺されたそうです』と答えてしまった。岡村君は、これで大体のあらすじは分かったと感じ、『ご苦労! あともしっかりやれよ』と電話を切った」(「上海時代 中」)
世界を駆け巡る「二・二六事件の第一報」合戦の内幕
小田が「新聞通信調査会報」1967年2月1日号に書いた回想によると、出社した岡村は「デスクにつくや否や、『帝都に革命勃発』とフラッシュを飛ばした。これが世界を駆け巡る二・二六事件の第一報となったわけだが、その早業はあれよあれよと言うばかり」だった。岡村が打電した速報はAPやロイターなどを通して海外に発信されたという。
また、メディア研究の第一人者だった殿木圭一・元東大新聞研所長は、「別冊新聞研究」1995年4月号の「聴きとりでつづる新聞史」で、同盟通信大阪支社経済部の記者だった当時のことを語っている。彼もその日の宿直だったが、京都で各県の警保課長会議が開かれており、唐沢俊樹・内務省警保局長(戦後、法相)も出席していた。そのため、事件の情報が早朝から次々大阪電信局に入ってきたのを傍受した。東京の同盟本社に連絡したが「何もない」とらちが明かず、結局、契約に従ってロイターに短いニュースを流したという。
「社会部に地方紙から電話があったのは、殿木が本社に連絡した後のことであったのかもしれない」と「国策通信社『同盟』の興亡」は書いている。時間的に見ると、その可能性は十分。ただ、ほかにも早朝情報を得たという証言があるようで、これだけの大事件であれば、情報が錯綜したことは疑いを入れない。