「いやしくも軍事費の名を冠すれば何でも絶対性を帯び」の痛烈批判
27日付朝刊になって、各紙は一斉に政府が発表した内容を大々的に報じる。基本的には「全国人心動揺なく平静」(読売)のトーンで横並び。時事新報は警戒する兵士などの写真に「安んぜよ!市民 治安は完全に維持さる」という説明を付けている。東京日日の社会面は「非常警備下の帝都」の見出しで、劇場や映画館の灯が消えた銀座など盛り場の光景を「あたかも帝都清浄化を暗示するかのごとく、ひねもす降り続いた雪が、薄墨の宵闇に吸われて消えるころから、大東京は寂然として夜の底へ沈んでいった」と表現した。しかし、政府の発表は全てラジオで放送され、新聞、通信は後回し。メディアの潮の流れも変わり始めていた。
5年前、1931年の「柳条湖事件」に始まる「満州事変」で新聞報道への関心が一気に高まり、各紙とも部数を大幅に伸ばした。その影響もあって、以前から、他紙よりも軍部の方針に批判的だった朝日は理解を示すようになった。それでも、1935年11月30日の「依然として糊塗的予算」という社説では「いやしくも軍事費の名を冠すれば何でも絶対性を帯び、財政計画がその前に低頭すべきであるとは軍事当局といえども、考えていないであろう」と批判。事件前の1936年2月14日の「政治教育と言論の自由」でも「現在のごとき新聞紙法、出版法、治安警察法をもって憲法の精神に反する法律だというのである」と明言した。
言論の自由は完全にトドメを刺された
それは「二・二六事件」を契機に変わる。1936年4月9日の「軍紀粛正と国政一新」では、「国軍不動の威重を背景とし、これを代表して現役陸軍大将が陸軍大臣として内閣に列し、その具現を図る時において、初めてその使命が達せらるることは寺内(寿一)陸相の言うがごとくである」と、陸軍が強行した軍部大臣現役武官制(陸相、海相を現役の大将・中将に限定する制度)を支持した。「1932(昭和7)年に起きた五・一五事件では、『大阪朝日』や菊竹六鼓の『福岡日日新聞』(現西日本新聞)の激しい軍部批判、テロ攻撃の社説が掲載され、新聞の抵抗が一部には見られた」(「言論死して国ついに亡ぶ」)。それが二・二六ではすっかり影をひそめた。「それまで半死の状態であった言論の自由は完全にトドメを刺されたのである」(同書)。