文春オンライン

連載昭和の35大事件

機関銃を据えたトラックが新聞社を襲撃 歴史的クーデター「二・二六事件」に殺された“言論の自由”

日本が悲惨な敗戦を迎える「9年前のできごと」

2019/12/01
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「海外為替が停止になったら困る」

 興味深いのは、昭和天皇の経済や財界への目配りだ。「昭和天皇独白録」の「二・二六事件」の項ではこう語っている。「当時叛軍に対して討伐命令を出したが、それについては町田忠治を思い出す。町田は大蔵大臣であったが、金融方面の悪影響を非常に心配して、断然たる処置を採らねばパニックが起こると忠告してくれたので、強硬に討伐命令を出すことができた」。続いて「大体討伐命令は戒厳令とも関連があるので、軍系統限りでは出せない。政府との諒解が必要であるが、当時岡田(啓介首相)の所在が不明なのと、かつまた陸軍省の態度が手ぬるかったので、私から厳命を下したわけである」とも。

 事件終息後にはこうも言っている。「事件の経済界に与える影響、特に海外為替が停止になったら困ると考えていた。しかし、比較的早く事件が片づき、さしたる影響もなかった。本当によかった」(「木戸幸一日記上」)

岡田首相(左)と、松尾大佐(右) ©文藝春秋

「いま首相官邸が襲われている」との通報

 さらに面白い証言がある。1967年2月24日に放送された東京12チャンネル(現テレビ東京)「証言私の昭和史」で、当時事件を取材した同盟通信(共同通信・時事通信の前身)社会部の斎藤正躬記者は、「どうやって事件発生を知ったか」という質問にこう答えている。

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「朝8時に出社しましたら、もう編集幹部全部来ているんですね」「第一報というのが、大変面白いんですけど、大阪の北浜」「証券街の知っている人が大阪の支社に教えてくれたんですね。何か東京に起こっていると」。大阪・北浜の株屋が同盟の大阪支社に知らせたということだ。経済界の反応が早いのは利害に直結するからだが、それにしても、何か情報ルートがあったのだろうか。

 事件の報道はどうだったのか。号外の競争では東京日日(現・毎日新聞)が勝利したといわれる。

「毎日新聞百年史」によれば、「未明に本社へ怪電話があった」。社会部宿直の記者が出ると、「いま首相官邸が襲われている」との通報だった。現場に行って確認。名古屋、大阪、門司の各本社に電話で急報。一斉に号外を発行した。「内務省警保局は午前8時すぎ、記事掲載の一切禁止を電話で通告した。憲兵隊本部も各社幹部を出頭させ、『当局公表以外は絶対に掲載を禁止する。もしも、多少でも侵すものは厳罰を以って報いる』と厳しく警告した」(前坂俊之「言論死して国ついに亡ぶ」)。その時点で号外は1枚も残っていなかったという(「毎日新聞百年史」)。

競争に勝ったとされる東京日日新聞号外

 縮刷版を見ると、東京では東京日日、読売、時事新報が号外を出しているが、3紙とも、事件発生から約13時間後の同日午後8時15分に、陸軍省が初めて発表した事件概要の内容そのまま。夕刊が出た後に発行されたことは明らかだ。鈴木健二「戦争と新聞」は「(早朝の号外の)ほとんどはすぐ回収された」としているが、同書が紹介している号外の見出しも縮刷版とは少し違っている。早朝の号外は残っていないのだろうか。同じ会社ながら東京朝日と微妙な関係だった大阪朝日も号外を出しているが、やはり夜の陸軍省発表を受けた内容だ。