軍上層部の弛緩から起った二・二六叛乱軍はどの様にして鎮圧されたか、担当検事の綴る秘録
初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「二・二六事件秘録」(解説を読む)
二・二六事件といえば、もう19年も前の出来事であるが、私の検察官生活を顧みてこの事件は最も思い出の深いものの一つである。二・二六事件の前哨戦ともいうべき血盟団事件や五・一五事件(民間側)には、私が東京地検の検事として捜査及び第一審の公判立会を担当したのが因縁で、二・二六事件でも民間側の主任検事として軍側の捜査に協力することになったのである。
首相官邸から国会議事堂の辺りは通行止め
想い起すと、丁度昭和11年2月26日の早暁のことであるが、私はまだ床の中に入っておってウトウトしておると、枕許においてあった警察電話のベルがけたたましく鳴る。私は不吉な予感を抱きながら急いで受話機をとると、当時の警視庁特高課長の毛利基氏からの電話で「今暁叛乱軍が首相官邸などを襲撃した。然し、まだ詳しいことは判らないが一応報告する」というのであった。
私は、急いで床から飛び出し、すぐ身仕度をして当時の住居であった池袋4丁目の自宅を出ていつも検事局に通勤するときの順路である池袋駅から省線(今の国電)に乗り市ヶ谷駅で下車し、それから当時市ヶ谷新橋間を通っておった黄バスに乗った。すると、乗客の内の誰かが「けさ何か起ったらしい」というようなことをいっており、私は、これは叛乱事件のことをいっておるのだと思った。
このバスは、普通は市ヶ谷から麴町4丁目に出て平河町から左に曲り国会議事堂の北側を通り裁判所のところに出て新橋に行くのであるが、この日はバスが動き出すと、車掌が「けさは何か事故があったようで、このバスは平河町から右に折れて山王下から新橋に行くことになりましたから」といっていた。私はこれは叛乱事件のため首相官邸から国会議事堂の辺りは通行止めになっておるのだと思ったので、麴町4丁目でバスを降りて、通りがかりの円タクを拾った。
「車のままでは困るからこれから先は歩いていってもらいたい」
半蔵門のところまで来ると、両側から銃剣の兵隊さん達が私の車をとりまき「これから先は行くことが出来ないから戻ってくれ」という。私はそのときはまだこの兵隊さん達が叛乱部隊の人達とは思わなかったのであって、実は、首相官邸等を襲撃した連中は、五・一五事件のときのように、襲撃後はすぐ引き上げて、その後を警備しておる正規の兵隊さん達だとばかり思い込んでいたのである。
それで、私はこの人達に名刺を出して「これから検事局に登庁するのだから通してもらいたい」と頼んだが、中々承知してくれない。2、3押問答をしておるうちに、1人の下士官が「何だ何だ」といいながら出てきた。私が前に血盟団事件や五・一五事件(民間側)の主任検事であった関係で陸海軍部内でも多少私の名前が知られておったためか、その下士官も私の名前を知っておったらしく「木内検事殿ですか、それなら通ってもよろしい。しかし、車のままでは困るからこれから先は歩いていってもらいたい」というので、私は車をすてて三宅坂に向って歩いていった。