12月1日、天皇皇后両陛下の長女・愛子さまは18歳の誕生日を迎えられた。来春からは大学に進学される愛子さまについて、象徴天皇制を研究する名古屋大学大学院人文学研究科准教授の河西秀哉氏は、「愛子内親王へのメディアや人々の関心は続いている」と分析する。
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天皇・皇太子の娘たちの「恋愛と結婚」
戦後の象徴天皇制においては、女性皇族は特に注目を浴びてきた存在だった。特に天皇・皇太子の娘たちは、それだけに報道もされやすく、その行動や思考から世間が受けたインパクトも大きかった。
昭和天皇には5人の娘たちがおり、戦後、三女の孝宮和子(たかのみや・かずこ)内親王は誰と結婚するのかが話題となった。しかし、1947年の11宮家の皇籍離脱や華族制度の廃止に伴って、相手をどうするのかが大きな問題になる。日本国憲法が施行されたことにより、それまでのように家と家とが決めた結婚ではなく、24条の両性の合意にのみ基づいた結婚が人々の理想となりつつあった状況のなか、最終的には藤原氏の流れを汲む五摂家の一つである鷹司家の鷹司平通(たかつかさ・としみち)が和子内親王の婚約者として内定したことが1950年1月に発表される。
鷹司は元公爵家の嫡男とはいえ日本交通公社に勤めるサラリーマンで、天皇の娘が民間に嫁ぎ生活することへのインパクトは大きかった。「象徴」となって、天皇制のあり方が変わったと見られたのである。そして、内定発表から結婚まで、2人が頻繁に会っていることがメディアでは報道された。つまり、女性皇族が一般の人々と同じように恋愛・交際をしていると人々に印象づけたのである。
翌年には四女の順宮厚子(よりのみや・あつこ)内親王の婚約が発表された。相手は岡山で牧場を経営する旧岡山藩主家・元侯爵家の池田隆政であった。旧摂関家と結婚した孝宮よりも人々に近い存在と見られた。和子内親王と同じように厚子内親王の結婚もメディアで多数報道された。
五女・清宮貴子(すがのみや・たかこ)内親王も1959年3月、旧日向佐土原藩主家・元伯爵家の島津久永との婚約が発表される。その前に行われた成年皇族になるに当たっての記者会見で貴子内親王が「私が選んだ人を見ていただきます」と発言し、「恋愛結婚」との印象を与えた。貴子内親王は結婚会見での明るい様子や結婚後のメディアへの露出など、それまでの皇室にはない新しさを印象づけた。つまり、昭和天皇の娘たちは、象徴と変化した天皇制の「民主化」を示す存在だったと言える。