砥石城とは1つの城ではなく、本城を中心に北に枡形城、南に砥石城、少し離れた西南に米山城を配した堅固な連郭式要害(山城)の総称である。いつ頃、誰の手によって築かれたかは史料が残っていないため定かではないが、室町時代後期に埴科郡坂城の村上氏が小県郡進出の足がかりとして築いた山城だとも、真田氏が真田郷から上田盆地への進出のために築いた山城だとも言われている(『真田三代』では真田幸綱(幸隆)が築いたと書かれている)。幸綱(幸隆)時代には本城しかなかったが、その後村上義清によって枡形城、砥石城、米山城が築かれた。各山城は上田市の東北部、東太郎山の東端から神川に洽って南方に突き出した細長い尾根に構築されている。上田市域に点在する30を超える山城跡の中で、最もスケールの大きな山城だ。

素晴らしい眺望が楽しめる砥石城跡。

 天文10年(1541)、村上義清は武田氏や諏訪氏とともに海野平合戦で海野氏を滅した後、砥石城を大改修し、小県支配の拠点とした。しかし天文19年(1550)、北信への勢力拡大を目論む武田晴信(信玄)は村上氏との同盟を破棄し、精鋭部隊を率いて砥石城を攻撃。40日間に渡って猛攻を加えたが、砥石城にこもった村上軍はこれに耐え抜いたばかりか、撤退する武田軍に襲いかかって激しい追い討ちを加え、大勝利を収めた。この晴信(信玄)の数少ない大敗は後に「信玄の砥石くずれ」と呼ばれた。

 しかし翌天文20年(1551)5月26日、武田氏の配下になっていた真田幸綱(幸隆)がたった1日で、しかも敵方の半分にも満たない少兵力で砥石城の攻略に成功。幸綱(幸隆)はどのようにして攻略したのか、詳しい経緯が記された史料はないが、『真田三代』では村上氏側についていた豪族を調略して味方に引き入れ、内側から門を開けさせて攻略したと書かれている。晴信でも落とせなかった城を奪取したことで幸綱(幸隆)の武田家内での地位は不動のものとなり、晴信(信玄)から褒美として上田周辺の一千貫の領地を与えられた。海野平で獲られた先祖代々の土地を奪還したわけである。その後、幸綱(幸隆)は真田氏本城から砥石城に本拠を移し、上田城を築くまでここを足がかりに勢力を拡大していった。上田城築城後も上田盆地を守る戦略上の重要拠点として位置づけられた。徳川軍を迎え撃った第二次上田合戦でも昌幸の作戦通り、信繁(幸村)が砥石城にこもってドラマチックな活躍を見せるので、大河ドラマ「真田丸」での1つの見所となるだろう。

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 各城跡では数々の遺構が残されており、現在でも往時の姿を偲ぶことができる。砥石城に至るコースはいくつかあるが、砥石城に最短で登るルートを紹介しよう。

まずは「なめんなよ!」と書かれた小さな石碑が建つ登山口から歩き出す。
すぐに黒い砦が出迎えてくれる。砦の上にあがることもできるが階段が狭くて急勾配なので注意が必要だ。
砦をくぐってしばらくは緩やかな登りの山道が続く。
松林の中を進むうちに徐々に傾斜がきつくなる。
最後のきつい登りの階段を登り切ったら平坦な場所に出る。砥石城群を構成する砦のひとつ、砥石城跡だ。
山頂からは、上田城を含む上田市の中心部が一望でき、天気のいい日は美ヶ原や北アルプスまで望める。
「本城、枡形城へ」という看板の方向に降りると砥石城跡直下に切り立った崖のようなものが現れる。これは敵の侵入を防ぐために作られた「切岸」という急崖で、このさらに下にある堀切とセットで伊勢山方面からの道を押さえていた。本来ははしごを掛けて登り降りしていたと推定される。
さらに林の中の道を10分ほど歩くと、開けた場所に出る。砥石城の中核をなす山城、本城だ。
砥石城全城で最も広大で、南から北へと三の郭、二の郭と段登りの数段の削平した郭から構成されており、最上部が本郭。山上としてはかなり広い郭群であり、幸綱(幸隆)・昌幸らが住んでいた館もあったのではと推定されている(写真下も)。
 
郭付近には石垣や空堀の跡(写真下)も残されている。
 
本城の幾層にも及ぶ段郭や石垣、そして峰に通じる山道から侵入してくる敵を阻むためにそびえ立つ各要害はまさに鉄壁の守り。自分の足で歩くとこの砥石城がいかに難攻不落の山城かが実感としてわかり、この山中で大勢の武者たちが激突したシーンがまざまざと脳裏によぎる。各山城の両側は急勾配となっており、村上軍の追撃を受けた晴信(信玄)軍がこの急斜面を真っ逆さまに落ちていったと思うと思わず鳥肌が立つ。「信玄の砥石崩れ」とはよく言ったものである。信玄が為す術なく敗退したのもうなずけるが、それだけにその翌年、幸綱(幸隆)が落城した実績が輝く。

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