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故・中曽根康弘が進めた「民活」は、日本の生きづらさを加速させたのか

2019/12/09
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 国鉄改革はこうした中曽根の改革のシンボルと言える。この国鉄の分割・民営化を書いたノンフィクションに牧久『昭和解体』がある。ここには、政治家では中曽根vs.田中、三塚博vs.加藤六月、国鉄内では改革派vs.護持派、改革派vs.国労、国労vs.動労、こうした幾重もの対立のからみあいが詰め込まれている。それがそのまま、国鉄のややこしさを現し、分割・民営化が難事業であることを物語りもしている。

 ところで、なぜ国鉄をめぐって、中曽根と田中が対立するのか。

22兆円の赤字を抱えた国鉄と労働運動

 田中は『日本列島改造論』で、「国鉄が赤字であったとしても、国鉄は採算とは別に大きな使命を持っている」と述べるように、「国土の均衡ある発展」のため、全国に鉄道を広げるだけ広げることを是とした。そんな田中主導で「日本鉄道建設公団」なるものが作られもした。ここが「国鉄に代わって新線建設を行い、完成した鉄道は、大きな赤字が見込まれても国鉄が引き受けて運営」しなければならず(注3)、いわば鉄道をつくっては国鉄に押し付けていたのである。

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 そんなこともあって国鉄は、22兆円の赤字を抱えるにいたる。国鉄の問題はこれだけでない。当時最大野党の支持母体でもある労組組織「総評」の中核となる「国労」を抱え、スト権ストなどの労働運動が政治課題となりもした。

若き日の中曽根康弘 ©︎文藝春秋

 この国鉄を分割・民営化してしまおうと中曽根に提言したのが瀬島龍三である。瀬島は中曽根が設置した第二次行政調査会、いわゆる臨調のメンバーである。

 とはいえ中曽根は「田中曽根内閣」と揶揄されたようにヤミ将軍と呼ばれた田中の政治力を借りての政権運営を強いられており、国鉄内でも激しい対立があったため、難航を極めた。しかし1985年、田中が脳梗塞で倒れ、これによって勝負がつく。ちなみに田中が倒れた日のことを、ある新聞記者は「あの日ほど機嫌のよい中曽根さんをそれからも見たことがない」(注1)と回顧したという。

 かくして中曽根は国鉄を解体し、それによって国労を弱体化させ、日本の労働組合を衰退させるのだった。

民間人のブレーンを活用、政治は官邸主導

 国鉄改革がそうであるように、中曽根は民間人のブレーンを活用し、官邸主導の政治をおこなった。そうしたブレーンの代表格とも言えるのが、土光敏夫であり、先に名をあげた瀬島龍三である。瀬島は戦時中は大本営参謀で、戦争が終わるとシベリア抑留を経験する。帰国すると伊藤忠に入り、防衛産業の工作などで暗躍し、会長にまでなる。

 そんな瀬島はこう豪語している。「僕は中曽根ごとき者のブレーンではない。中曽根のためでなく、国家百年のためにやっている」(注4)。