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故・中曽根康弘が進めた「民活」は、日本の生きづらさを加速させたのか

2019/12/09

 中曽根康弘に長男が生まれたときのこと。妻が「お産で苦しんでいるときに、芸者を呼んで進駐軍とドンチャカやっていたとはなにごとです」と不平を口にすると、中曽根は自分は「国家的な仕事をしていたのだ」と釈明したという。

 服部龍二『中曽根康弘』に載るエピソードだ。これは天下国家を語る者の正体をあらわす寓話のようでもある。

 その中曽根が先月亡くなった。死を伝える記事の見出しには、戦後政治の総決算、ロンヤス関係、行政改革、国鉄改革などの言葉がならび、これらを業績として称えるものもあれば、それらが生んだ禍根を批判するものもあった。中曽根はそんな具合に功罪相半ばする元総理大臣であるとともに、戦後政治の生き証人でもあった。

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中曽根元首相 ©︎文藝春秋

田中角榮らからは出遅れた中曽根

 知られるように中曽根は田中角栄元首相(1993年没)と同い年で、そのうえ同期当選でもある。初当選のとき、まだ自由民主党は存在せず、ふたりは民主党に所属した。程なくして田中は自由党に移り、中曽根はその自由党を批判する急先鋒となる。自由党は吉田茂の政党で、軽武装・経済優先の政党であり、対して中曽根は自主憲法・再軍備を主張し、自由党と民主党が合併する「保守合同」にも反対したという。

中曽根と同期当選だった田中角栄 ©︎文藝春秋

 自民党が結党されると、田中は30代で大臣、40代で党幹事長と、異様な速さで出世していく。いっぽうで中曽根は傍流に身をおき、自分の派閥を持つようになりはするが、とはいえ「三角大福」(三木・角栄・大平・福田)からは出遅れた存在であった。後年、中曽根はライバルとして田中の名を挙げたというが(注1)、田中にすれば福田赳夫がライバルであり、中曽根は格下もいいところであったろう。

中曽根の改革のシンボル・国鉄改革

 それでも中曽根は、田中に10年遅れで首相となる。そして「戦後政治の総決算」を謳い、本人いわく「吉田政治からの脱却」が中心にあった(注2)。同時に田中角栄的なるものの解体の面もあったろう。それは族議員による政財官の利権構造からの脱却であり、裏を返すと派遣法など「民活」という名の規制緩和の始まりでもあった。