小説家や詩人のインタビューを読むと、たいてい幼少期からの本の虫だ。まずしょっぱなから「小さい頃から読書が大好きで……」あああごめんなさいごめんなさい許してくださいという気分になる。なぜなら僕は読書好きな子どもでも何でもなかったから。むしろ本嫌いの部類だったと言ってもいいくらい。特に小説など「物語」のあるものがてんでだめだった。複雑に入り組んだ人間関係だの時間軸だの、頭の中が混乱してくる。他人がこしらえたストーリーを必死で追いかけることになんて、何の意味も感じられなかった。
しかしそのくせして文字とか言葉に対する執着は、小さい頃からやたらと強かった。特に強く興味を持っていたのは「名前」だった。僕の小学1年生のときの夏休みの自由研究は「力士のしこ名一覧表」で、先生には「やまだくんはおすもうさんのなまえをいっぱいしっているんですね」と評されたが、実はそこに書かれたしこ名は全て自分で創作したものだった。相撲好きの祖母と一緒にテレビで観ているうちに、お相撲さんの名前には一定の法則性(山がつくとか琴がつくとか)があるのに気付いてすっかり面白くなってしまい、自分で見出すことのできた法則性にもとづいて延々とオリジナルのしこ名をでっち上げていたのだ。そして当時の僕は「自由研究」なるものがどういうものかまだ理解できていなかったので、「宿題なんだよ」と言われても全く意味がわからず、まるで手を付けていなかった。親は困った末に、僕が一人で勝手に作っていたしこ名一覧表を自由研究だということにして提出した。担任教師は相撲にはあまり詳しくなかったのかもしれない。もしかするとわかっていて大人の対応をしてくれたのかもしれない。とにかく僕にとっては、自由研究がどういうものかを理解するよりも、架空のしこ名を創りだすという行為の方が早かったのである。社会性よりも言葉とか名前といったもの自体への純粋な興味が最初から先行していたのだろう。コミュニケーションのために言葉を使うという発想は当初からなかった。
それといっしょで、物語を語るために言葉を使うという発想も、僕には理解不能だった。文字はひたすら文字で、言葉はひたすら言葉じゃないかと思っていた。童話も小説も全く意味のわからないものだった。それよりもさあ、「め」と「ぬ」って発音はかけらも似てないのにひらがながこんなに似てるんだよ。それって不思議で、おかしくて、面白くない? そういうことを僕は知りたかったし、聞きたかった。
小学校の教室はスポーツ系のグループと文化系のグループに分かれてそれぞれに盛り上がっていたが、僕はどちらにも入れなかった。スポーツはまずどう逆立ちしてもできないのでとりあえず文化系のグループに入ってみようと思ってはみたものの、彼らが夢中になっている児童小説やアニメや漫画に僕は興味を持てなかった。テレビゲームならできそうだと思ってやってみたが、ストーリーのあるRPGは面倒くさいとしか思えず、「ぷよぷよ」のようなパズルゲームの類をやり込み続けたあと、結局飽きてしまった。失った視力に見合うだけの友人は得られなかった。
正直なところを言えば、僕は寂しかった。本当は、誰かとゲームをやりたかった。野球だって「ぷよぷよ」だっていい。お気に入りのアニメの次回をめぐってあれこれ言い合うのだって、漫画を貸し合うのだって構わなかった。何かしらのルールを誰かと共有して、分かち合うように勝ち負けを競ったりしたかったのだ。しかし「物語」というものが理解できなかった僕は、中途半端なまま誰とも混じりあうことができなかった。僕に残されていたのは、一人遊びだけだった。