(#2より続く)
変動相場制にきりかえた
「最初は押上のあたりで物件を探していたんですよ。でもある日突然、『浅草に決めたぞ』って……」
75年6月、熊谷が「かいば屋」を開店させた。1日とて途切れることのない大酒飲みである彼が、飲み屋であれば自分が酒を飲みながら仕事になるとの思いで始めた店だった。熊谷の妻である栄子に話を聞こうと墨田区内の自宅に伺うと、「いまでも毎日、いつも飲んでたこの酒を仏壇に供えてるんですよ」と、サントリーホワイトの水割りを私に出し、前述の言葉を口にした。栄子は続ける。
「浅草で飲んだ帰りに横丁を通ったら、ちょうど店を畳もうとしてるところに巡りあったんですって。それで知り合いのママに相談したら、大家さんに掛け合ってくれて、借りれることになったみたい」
「かいば屋」は6席ほどのカウンターと小上がりのみ。8人も入ればいっぱいになる小さな店だ。この店で起きたことについて、田中小実昌は著書で数多く触れている。
〈クマさんの店「かいば屋」は、前には酎ハイ(焼酎ハイボール)や生揚げ(関西ふうに言うと厚揚げ)などの料金が、壁にはった紙に書いてあったが、なくなった。変動相場制にきりかえたのだそうだ。そのあと、クマさんの店にいくと、「きょうは、高いよ」とクマさんが言う。
「どうして?」とぼくがきくと、クマさんは威張ってこたえた。「きょう、あたし、(浅草の)場外馬券場で、みんなすっちまったからね。ちくしょう、そのモトをとらなきゃ」〉(『また一日』より)
浅草ふきよせ乃会
野坂は著書『文壇』の巻末につけた登場人物紹介で、熊谷について〈噺家、相撲取りにタダ酒飲ませ、タニマチ気取り。開店前から酔っていた。浦山監督、石堂脚本「ファントマ・レディ」は、「かいば屋」で撮られた。熊谷も出演。幻の名作〉と綴っている。
文学以外に落語と相撲が好きだった熊谷は、若手の噺家や関取が来ると可愛がり、出世払いとしてほとんど料金を取らなかった。昨年、紫綬褒章を受章した五街道雲助も熊谷に可愛がられた1人で、彼の著書『雲助、悪名一代』には〈落語の師匠、馬生。酒の師匠、かいば屋のおやっさん〉と書かれている。
この「かいば屋」開店の年の11月、吉村は浅草にある浪曲の定席「木馬亭」で「浅草ふきよせ乃会」というイベントを始めた。
〈浅草に、浅草らしい催し物や興行がさっぱり少なくなってしまった。それなら、ささやかながらわたしたち自身の手でやってやれ、というのがそもそもの発想の基だった〉(『浅草のみだおれ』より)
ほぼ月に1度の割合で84年9月の第100回まで続けられたこのイベントは、浅草とかかわりのある落語、演芸やレビュー、ストリップなど、ありとあらゆる要素が詰まっていた。手元に100回分の公演内容を記した会の記録メモがあるが、たとえば第1回のイベントは以下の通り。
〈木下華声のエノケン・ロッパ全盛当時の話。南寿郎、雲井竜太郎の殺陣。パン猪狩、K猪狩のパン・ショー。淀橋太郎と会長(筆者注:吉村)との対談〉
最終回の第100回記念公演は3日間連続で開催され、野坂や竹中労の講演や、吉原芸妓連中の木遣りとお座付き、内海桂子・好江の漫才など吉村がこれまでに抱いた興味、人脈の集大成的なものとなっている。
「生涯居候」
吉村の「浅草ふきよせ乃会」が終わった翌85年、すでに50歳になった熊谷の体調が徐々に悪くなっていった。連続飲酒により肝臓を壊したのだ。妻の栄子は振り返る。
「入院して退院後もウイスキーを毎日1本は飲んでいましたね。で、1年くらい経ったある日、『俺のかわりに店をやれ』と言われ、私が勤めを辞めて、店に出始めたんです」
熊谷と同い年の栄子にとって、50歳にして初めての水商売。そしてそれは、足を悪くして店を閉める10年6月まで続くことになる。
「それまで店で出すつまみは作ってましたけど、どれだけお酒を入れていいかもわからない。お客さんに教えて貰いました。お父さん(熊谷)はお友達が店に来ると飲みにやって来て、一緒に飲みに出てました」
病院嫌いの熊谷は治療を拒み、血を吐きながらも酒を飲み続けた。88年の死の直前、彼が見舞いに来る友人宛に書いたメモが残っている。
〈昨日、洗面器一杯吐血して、日曜日まで持つかどうかわかりません。しかしながら、せっかくの皆様方の御好意でございますので、なるべく日曜日までは生きながらえる様努力致します。しかしながら伏って居るかもしれません。その節は失礼の段重々おわび致します〉
メモに書かれた日曜日には間に合わず、3月に彼は肝硬変による静脈瘤破裂で帰らぬ人となった。享年53。栄子は言う。
「本当に好きなことをやって生きた人でしたね。でも、私もそれを見ているのが楽しかったんですよ」
葬儀で野坂が編集者に託した熊谷の墓碑銘は、「生涯居候」だった。