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元祖風俗ライターが棲んだ街 #3

50年後のずばり東京――浅草吉原遊郭街には酔狂な「アスビ人」が集っていた

2017/03/26

「今日はおカネがないんだ」

 89年には殿山泰司が死に、94年には吉行淳之介が死んだ。

 だが吉村は、77歳になった97年に『浅草のみだおれ』を出版するなど、細々ながら生活を続けていた。年金を受給していなかった彼の生活は、当然苦しかったのだが、彼を支援する人々、吉村曰く「応援団」がいたのである。

 92年に吉村と知り合い、当初は自分が手がけるイベントの企画を吉村に依頼してギャラを支払い、その後も吉村が亡くなるまで、飲食をともにするときはすべて面倒を見ていた元私鉄社員の井手博は話す。

「平さんはあるストリップ劇場の会長から、踊り子さんに関する雑事を処理することで、毎月10万円を貰っていました。同時に、吉原の某ソープランドの名目上の社長となることで、社宅に無料で住んでいたのです。しかし、ソープが廃業してしまい、部屋を出なければならなくなった。新たな家賃分を会長に頼んだところ、15万円に増えたそうです」

 吉村は親しくしていた友人に、支援してくれる会長の名前を出して、「僕はあの会長より先に死ぬんだ。そうしたら最後まで全部面倒見てくれるから」と話していた。

 また、いつもニコニコと温和で、威張ることのない吉村を、浅草の人々は放っておけなかったようだ。それは私が取材で立ち寄った店で吉村の名を出すと、みな一様に「平さん」と口にして、嬉しそうな顔を見せたことからも間違いない。猿之助横丁にある居酒屋「番所」の女将・山田陽子は説明する。

「平さんは偉ぶらない人だから『今日はおカネがないんだ』って平気でおっしゃるのね。それで、『平さん、いいから』って。べつに平さんから取ろうって思わないでしょ。お客さんも『お、平さんいた』って店に入ってきて、その人が勘定を支払って、『平さん、もう1軒行こうよ』って。それで最後は『平さん、吉原のほうに行くから。送って行くから』って車に乗せてとかね。ほんと幸せな方。1人でいたって、独りじゃないみたいな。ああいう人がいて、ほんと浅草らしくてよかった……」

「平さんを肴にする会」

 毎夜どこかで飲んだ吉村が、台東区竜泉の自宅に帰る前に立ち寄っていたのが、03年に閉店した吉原の居酒屋「鈴音」である。故・古今亭志ん朝や、柳家小三治が馴染みにしていた、知る人ぞ知る店である。元女将の鈴木幸子はいつも吉村の髪を切っていたという。

「平さんが『こんな頭におカネをかけても』なんて言うから『やるわよ平ちゃん』って、昼間にお店で頭を刈ってました。彼はうちの五目ごはんが好きで、お母さんの味に似てるって話すから、いつもおみやげに持たせてましたね。うちの店では志ん朝師匠なんかも平さんが来ると『先生、いらっしゃい』って気軽に声をかけてました。たいがい酔っ払って1人でぷらっと来ますけど、最後の頃は歩くのも大変で、いつもうちのダンナが送って行ってましたね」

 吉村が亡くなった翌月の05年4月、浅草ビューホテルで吉村を偲ぶ会として「平さんを肴にする会」が開かれた。吉村の予言通り、会の費用で足りない分はすべてこれまで彼を援助していた会長が支払い、友人代表として野坂が名を連ねた。その会長も野坂も、いまは鬼籍に入ってしまった。

 3冊の著書と友人らの証言で、生前に吉村が通っていた、浅草およびその周辺の店として、私がリストアップしたのは56軒。そのうち現在も営業を続けていると確認できたのは16軒しかなかった。

 とくに吉原の店は極端に少なくなっており、24軒中2軒だけだった。やはり花街という特殊な事情が、新陳代謝を早くさせているのかもしれない。実際、現在の吉原を歩くと、以前ならよく目にした、赤線時代の名残をとどめた建物は明らかに減り、風情とは無縁の新しい建物に変わっているのがわかる。

赤線廃止前の吉原(1956年撮影) ©共同通信社

 街は変化するものだ。しかし人は急激な進化に疲れを感じると、懐かしさを感じる場所に行きたくなる。それが浅草だったりするのだが、その浅草ですら、本物の懐かしい景色と作られた懐かしい景色が混在するようになってきた。

 かつて浅草には「平さん」と「熊さん」がいた。彼らの過ごした懐かしい街並みは、徐々にではあるが、確実になくなりつつある。

(文中敬称略)